カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「他人の生活が羨ましくなってきた話」~仲間の年寄りたちがけっこう忙しそうだと気づいて

  徐々に復活してきた友人たちとの飲み会。
  行ってみたら意外と多くの仲間たちがいまだに勤めていた。
  私は彼らが羨ましい。
  しかし最近になって、急に羨ましくなってきているのはなぜだろう?
  という話。(写真:フォトAC)

【年寄りたちが、けっこう忙しいらしい】

 5月の最終土曜日に東京で大学時代の友人と、さらに6月に入って最初の日に地元で中学高校時代の友人と、久しぶりの飲み会をしました。前者はリモートを別にすれば3年ぶり、後者は3カ月ぶりですが年に一度回ってくる開催当番を、私が実施するのはやはり3年ぶりのことでした。もちろん新型コロナのためです。
 久しぶりなので話題にもこと欠かず、ずいぶんと楽しい時間を過ごしましたが、私には終始引っかかっていたことがあります。それは思った以上に私たちの現況に差というか、違いがあったからです。

 グループの人数は両方とも11名、今回の参加者もたまたま5名ずつ。つまり不参加は双方6名なのですが、その理由に「忙しい」「仕事が被っている」「予定がある」等が驚くほど多かったのです。私には親の介護があり、いまだ勤めのある妻の代わりに家事労働をしていて、さらに畑の世話がありますが、それでも基本的に「毎日が日曜日」でけっしてやり繰りがつかないほど忙しいわけではありません。ところが計22名の仲間たちのざっと7~8割が、70歳近い今もどこかで働いて収入を得ているのです。

【私は仕事のある連中が羨ましい】

 中に“社長”が二人もいるように、私の知る限り「働かなくては生きていけない」人はいないようです。それぞれ嘱託として会社に残るよう遺留されたり自ら残ったり、遊びがてらアルバイトをかけもちしたり――。都会の人たちはもちろん、田舎の方でも私のように自らの畑があったり、あるいは貸してもらえる遊休農地があったりすれば別ですが、そうでもないと時間を持て余すらしいのです。だから出ている勤めのために、かえって忙しくなっているのかもしれません。
 
 畑を耕して収穫を得て、雨が降れば休んでWebやら映画やら本やらを好き勝手に見て過ごす――私のような生活は彼らから見てある意味で羨ましい面もあるのかもしれません。私もずっとそれでいと思っていましたし、他の道を選択しようと思ったこともありませんでした。ところが最近になって急に、職業を持っている連中が羨ましい――。慣れた仕事でけっこうな収入を得ている妻が妬ましいと書きましたが、羨むべき人たちがこんなにたくさんいるとは、まったく思っておらずまさに衝撃的だったのです。

【問題の所在】

 勤めのある彼らと違って私がたっぷり持っているものは「自由」と「時間」です。誰からも指示を受けることなく、好き勝手にものごとを進めることができます。それは現役サラリーマンとして勤めていた時にはずっと得られなかったものです。
 ただし自由と言っても1日に24時間を越えて時間を使うことはできませんし、金も無尽蔵にあるわけではありません。妻や母に縛られている面も少なくはありませんし、畑を持っている以上、自然環境からも自由でいられません。
 もちろん他人の思惑からは完全に自由で、その点ではストレスからも自由であると言ってもいい生活ですが、まったくのほほんとしているわけでもありません。

 では彼らが持っていて私の持っていないものは何か――それは収入と鬱陶しいほどの人間関係です。
 つい先日も「私だってそれなりに働いているのに、労働が収入を生み出さないのはそれが無価値だと言われているようで空しい」といったことを書きましたが、それと同時に田舎の、特に畑のド真ん中にいたりすると、妙に虚しく人恋しくなって、人間の姿が見えるだけでもありがたい気になったりするものです。それが若者だったりすると、それだけで一息つける感じです。
 ――とここまで書いてきて思うのは、私が抱えている問題は「自由か孤独か」という実に古典的なものであるかもしれないという可能性です。しかしだとしたら働きに出ればいいわけでしょ? 経験のある学童保育の場はいつでも人手不足ですし、覚悟を決めれば学校現場も一度は歓迎してくれるはずです。それを承知で勤めに出ないのはやはりこの問題に決着がついているからです。
 私は自由を手放さないし、いまさら努力して勤めに出る気はない、それは動かぬことです。それにもかかわらずああだこうだと言っているのは、結局、私が今の生活に飽きてきただけなのかもしれません。
 
 そういえば家庭教師・塾講師を10年、中学校教師を10年、小学校教師を10年、管理職を10年、そして定年退職後の生活も今年で10年になろうとしています。
 私は昔から飽きっぽい性質でした。