カイト・カフェ

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「生涯、十字架を背負って生きる」~附属池田小学校事件から20年③  

 学校は、どんなミスを犯しても子どもを死なせなければなんとかなる、
 しかし死なせてしまった教師たちは、その後をどう生きていけるのだろう?
 2001年6月に附属池田小学校に赴任していた教師たちが、
 その答えを教えてくれる。

という話。

f:id:kite-cafe:20210610065033j:plain(写真:NHK)

 

【子どもの死を防げなかった教師たちは、その後どうなったか】

 おそらくどんな仕事であってもミスをしないということはないでしょう。私も現職のころ、会計でミスをしたり物品の発注数を間違えたりとミスの少ない方ではありませんでした。授業の重要なところで指示を誤ったり、生徒指導となると「ああしておけば」「こうしておけば」の連続です。
 しかしそのひとつひとつに傷ついたり落ち込んだりしていては、とても勤まる仕事ではありません。そこで私は何か失敗を犯すたびに、年下の同僚から教えてもらったオマジナイのことばを心に呟くようにしていました。
「子どもを死なせさえしなければ、たいていのことは何とかなりますよ」

 しかしその最後の砦を守り切れず、子どもを死なせてしまった教師たちの胸の内はいかばかりか――東日本大震災津波で74名もの児童失ってしまった11人の教員たち(うち10名は死亡)、そして附属池田小学校の20名あまりの先生たちはその代表です。

 事件のあった2001年当時、附属池田小学校に在籍した先生方はその後どうなったのか。特に多くの児童を教室に残したまま数名と園芸花壇の様子を見に行き、途中で犯人・宅間守とすれ違ったのにやり過ごしてしまった2年生の担任――。彼のクラスからは最も多い5人の犠牲者が出ています。
 その隣のクラスの、犯人が教室に入って子どもを刺すのを見た瞬間、避難の指示も出さずに職員室に走って警察に連絡した女性教師――その人は引き続き教員であり続けたのか。
 そして状況把握を怠ったばかりに刺された多くの子どもを放置することになってしまった副校長は?
 犯人・宅間守に椅子を投げつけて応戦したものの、結局、児童の刺されるのを防げず、子どもを抱きしめながら、誰も助けに来ないことに泣きながら怒っていたあの先生も気になります。
 
 

【罪は問えない】

 最終的な結論として、私はこの先生たちの罪は問えないと思っています。
 最初に犯人とすれ違ってしまった担任の行動も、そのころの学校の状況を考えれば自然なものだったと言えます。当時は「開かれた学校づくり」が盛んに言われた時代で、「いつでも、だれでも、自由に参観できる学校」は目標ですらあったのです。

 確かに附属池田小事件の2年前には京都の日野小学校校庭で児童が殺されるという、通称「てるくはのる事件」がありましたが、「開かれた学校づくり」には何の影響も与えませんでした。私は当時、無制限の「開かれた学校づくり」が学校を無防備にすると、ネットで強く警告したのでよく覚えています。しかし事件は何の教訓も残さず、授業時間に校地内を犬を連れて散歩する人がいたら、それこそ望ましい地域密着型の学校だと、そんな雰囲気さえあったのです。

 2番目に襲われた教室の女性教師について言えば、この人はのちに保護者説明会で責められて、思わず、
「私にも子どもがいるのです(だから逃げる必要があった)」
と答えて大変なひんしゅくを買います。
 しかしこれは答え方を間違えたのです。
「怖かったのです。わけが分からなくなって、足が勝手に動いて逃げてしまったのです。パニックでした」
 そう答えればよかったのです。
 宅間守自衛隊経験もある身長180cmを越える大男です。それが血糊のついた出刃包丁を持っていきなり現れ、子どもを刺し、血走った目でこちらに向かって来たのです。“怖くてパニックになった”という説明の方が、“瞬間的に自分の子どものことを考えて、家族を守るために逃げました”よりよほど現実的です。もちろん望ましい行動ではありませんが、理解できるものです。

 パニックという点では宅間守を取り押さえた副校長も、教室で子どもを泣きながら抱きしめていた2年生の担任も同じです。皆、子どもの倒れている事件現場が4つもあるなど想像だにしなかったのです。

 想像もしなかったと言えば、ある教員は警察官が到着してから「犯人はひとり(ということ)でいいですね?」と問われて絶句します。侵入者が複数いて、逃走中かどこかに潜んでいるかもしれないという可能性に、まったく気づいていなかったからです。しかしそういうものでしょう。
 池田小事件のあった今でこそ考えることもできますが、暴漢が小学校に入って児童を次々と刺すなど、可能性としても話し合われたことはなかったのです。

 2001年6月8日の附属池田小学校では、すべての教員が多かれ少なかれパニックに陥っていました。もしかしたら副校長が刃物を振り回す大男に立ち向かっていったことさえも、パニックのおかげだったのかもしれません。
 
 

【生涯、十字架を背負って生きる】

 さきほど「事件のあった2001年当時、附属池田小学校に在籍した先生方は、その後どうなったのか」と書きました。これに関する情報を私はずっと持っていなかったのです。

 ただ、“私だったら教員は続けられないな”という思いはありました。あれだけの子どもを死なせてしまった自分が、どういう立場で教壇に立ったらいいのか分からないからです。特に子どもを置き去りにして職員室に走った女性教諭は続けていくのが難しいだろうな、とも思っていました。
 ところが一昨日の「ニュースウォッチ9」によると、20名あまりいた当時の教員は、誰ひとり教職を去っていなかったのです。

 番組では現場にいた一人の教師が、顔を出さず名前もあかさない条件でインタビューに答えていました。血を流す子どもを抱きしめて泣いていた人です。自分が事件を経験していることは、これまでどの学校でも明かしてこなかったといいます。

 彼の最初の言葉は、静かに、ゆっくりと押し出す、
「あそこで見たものは、ずっと、消えない」
というものでした。事件直後に胸の内をつづったノートには、
「自分への怒りは、消えない」
「もう帰らないあの子たちに、今、私ができることって何なのでしょうか」

と、自責の念と無力感が記されていたといいます。

「一言、廊下に出て声を上げれば、テラスへ出れば、誰かいたのかもしれない。もう1分・2分(早く)来てくれた救急搬送の方の手に渡れば、ひょっとしたらまだ助かったかもしれないと――ひとを育てる仕事をしているのに、最後にそういう(子どもの亡くなる)原因をつくったのは自分かなと思ってしまうと、ちょっと大げさですけれど、生きていていいのかなあと・・・」

 子どもたちと向き合う明確な答えがない、その答えを見出したいと、もがきながらその後の20年間、教員を続けてきたといいます。
「違う仕事に就いていたら、自分を許せなかったかもしれない。逃げた、結局逃げたのだと――」

 ここでようやく私は答えにたどりつきます。
 
“私だったら教員は続けられない”と書きましたが、この話は行くも地獄、残るも地獄なのです。
 学校を去れば教職員や保護者の目からは逃れられますが、 “子どもの命を救えなかった”という思いは何年たってもどこへ行ってもついて回るのです。辞めればそこに“逃げた”という新たな思いが積みあがるだけ、それに学校にいればいつか子どもたちのためにできることが見つかるかもしれないのです。

「子どもを死なせさえしなければ、たいていのことは何とかなりますよ」
 しかし死なせてしまった教師は、生涯、十字架を背負って生きるしかないのです。
(この稿、終了)