カイト・カフェ

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「通知票という私の武器」~1学期が終わります①

 通知票、間に合いそうかな?
 使い方によっては、児童生徒を生かしも殺しもできそうなこの武器。
 私にとっては保護者と直接話すことのできる重要な道具だった。
 もっとも現代では他にいくらでも方法はあるが――。

という話。

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(写真:フォトAC)
 

 【通知票、間に合いそうですか?】

 いよいよ明日は一学期終業式です(という学校がかなり多くあります)。

 昨日・一昨日と通知票に忙しかった先生も多かったのではないでしょうか。管理職に目を通してもらうことが義務付けられている学校では、もうとっくに終わっているかもしれませんが。
 現役のころの私は終業式の三日前くらいにはすっかり仕上がっていて、あとは渡すばかりに――ということを常に目標にしながら、一度も達成したことはありませんでした。前日の夜に仕上がっていればまだしも、最悪の時は終業式の当日、午前7時半まで書いていたこともあります。しかし終業式の最中ですら書き続けていた先生も、結局間に合わず、夏休み中に改めて取りに来させた先生も知っていますから、私なんかまだマシなほうです(ということにしておきます)。
 
 

【コピペの通知票、大丈夫?】

 他の先生がたがどんな書き方をしているのかは、ついぞわかりませんでしたが、今はSNS時代、その片鱗がうかがえる記事がいくつもあります。中でも驚いたのが、所見欄の文章を7種類ほど用意して、児童生徒に応じてコピペ(コピー&ペースト)するという先生方が、案外多いことです。

 子どもは千差万別、一人一人違っているとはいっても、全員がてんでんばらばらなら教育などできません。算数の間違え方や教師の指示に対する反応にはある程度の類型があって、だからそれを頼り指導の方針を立てられる、それが普通です。
 ですから通知票の所見欄に七つの文例を用意して、あとは当てはめていくだけという方法が間違っているとは言えないのですが、似た者同士4~5名を一括で評価できる文章――同じグループのA君・B君・C君・D君・E君の保護者が、誰も違和感をもたないような単一の文章、それを考えるのって、すごく大変じゃないですか?
 そんな名文を7種類も作っている間に、35~36人の所見なんて簡単に書けてしまいそうな気もするのですが、いかがでしょう。
 
 

【通知票にネタ本はあるのか】

 同じことは通知票のネタ本についても言えます。
 いつぞや教育評論家の尾木某が、いかにも訳知り顔で、
「実は通知票の所見にはネタ本があるのですよ」
とテレビで話しているのを聞いたことがありますが、彼が紹介したのは教師向けの教育雑誌の付録でした。

「通知票所見文例200」だとか「総合的な学習の時間の評価100」とかいった文例集は、私が教員になった半世紀前くらいにもあって(あ、総合的な学習の時間はそれ自体がなかった!)、実際に新卒の時には私も買ったことがあります。
 しかし当時の受け持ち生徒数42名と対照すると、「文例200」との組み合わせ8400通りにもなってしまいます。

 例えば名簿番号1番のA君にふさわしい文例を探して1から辿って行き80番目くらいに良さそうな文章を見つける、しかしそれより先にもっといい文があるかもしれないので最後の200番まで読んで、“やっぱり80番かな”と考えて戻って書き写す。
 次に名簿番号2番のB君の評価を探して「文例200」に向かうのですが、このとき頭のいい人なら“B君にふさわしいのは156番のあの文!”とかいったことになるのでしょうが私はダメです。結局最初から、頭の隅にB君を置いて200番までたどっていくことになります。
 もちろん最後まで同じ調子で続けるのではなく、多少の知恵もつきますが、のべ8000回余りも読み続けることは間違いないでしょう。そんな苦労をするなら、42人分全部、自分で考えて書いた方がよほど楽です。

 したがって、
「通知票にネタ本はあるのか」
の答えは、
「あるけど、ほとんど使えない」
が正解いうことになります。
 
 

【通知票という私の武器】

 学校という教育の戦場での、先生たちの戦い方は千差万別です。何を武器とするかはその人によります。

 私にとって1学期の通知票は、とても重要な武器でした。日ごろめったに語り掛けることのないすべての保護者に、そして間接的にはその子どもたち(児童生徒)に、私が抱いているその子の心象・理解、そして思いや願いを伝える絶好の機会だからです。
「私はこの子のことをこんな子だと考えています。長所はこれこれこういう点だと感じていますが、それはああした事例からうかがえたことです。ただし、こちらのこういう点に関しては、まだまだ感心できない部分が残ります。あのときああしたことは確かに悪くないのですが、こうすればもっと良かったかもしれませんね。2学期以降、この点とあの点につては私も注意深く見ていきますので、お家でも気にかけて、ときどき訊ねてやってください。これからも頑張りましょう」
 こんなふうに書くことで、
「ああ、この先生はうちの子のことをしっかり見てくれているんだ」
「うちの子のこんないいところがあって、その点を評価してくれるんだ」
「ああ、こういうことに注意して行けばいいんだな」
と、そんなふうに考えてもらえれば、2学期以降ずいぶん楽になる面があると考えたのです。

 もちろん子どもを誉めるのに通知票の季節まで待っている私を咎める考え方もあります。私の知るある若い先生などは、年じゅう保護者に電話をかけていました。その内容のほとんどは、
「今日、〇〇君はこんなことをしててねえ、いやあ感心しました」
といった話です。そばで聞いてると初めのうちは虫唾が走るほどいやらしいやり方だと思ったのですが、なんどもなんども聞かされているうちに、“ああこの先生、やっぱいい先生だワ」と思えるようになってきます。
 こういう先生が、通知票までバカ丁寧に書く必要はないのです。私の武器は通知票ですが、この人の武器は電話だからです。
 
 

【実は私も手を抜いていた】

 かくいう私も、1学期通知票こそ異常な熱意を込めて書きましたが、2学期は懇談会直後ということもあって「懇談会で申し上げた通りです」でお茶を濁し、のちには同文のゴムスタンプまで作って押して終わりにしました。
 3学期の所見欄は基本的に「進級(卒業)おめでとう」と「頑張りました」といった内容だけです。もっとも1学期に書きすぎていますから、2・3学期は記入する場所さえありませんでした。

 さて、まだ仕上がっていない“通知票を武器とする先生方”、今夜は徹夜の勢いで頑張りましょう。どんなに仕事の遅い先生でも、この仕事が間に合わなかった例は(一人を除いて)まったくありませんから大丈夫です!