学校のアイデンティティ――活動内容の矛盾のなさ、統一性。
それがなくなって、学校は何をするところか分からなくなった。
そして、今の学校はオレの思う学校とは違うと、
みんなが怒るようになってきている
という話。
(写真:フォトAC)
【アイデンティティという面倒くさい用語の話】
できれば日本語に置き換えたいのにうまくハマって来ない言葉として「アイデンティティ(identity)」というのがあります。「自己同一性」「自己認識」などと訳されますが、「自我同一性」「自同律」と訳されることもあれば、「主体性」の意味で使われることもあります。ときに「個性」や「自我」などの意味でつかわれることもあって、その都度、立ち止まって考えなくてはならないのですが、私個人は、
「ある程度社会と調和した統一的な価値観」
のことを指すと考えています。面倒くさい言い方ですが、とりあえず正確に言おうとすればそうなるということです。簡単に言えば「勉強はしたくないけど、いい大学へ行きたい」などと言い出さない価値の体系。「あれも、これも」ではなく、「あれか、これか」の世界で、どちらを選ぶかがすでにはっきりしている状態、それがアイデンティティだと考えます。ただし「死刑になってもいいから人を殺したい」といった統一性は肯定的に認めることができませんから、「ある程度社会と調和した」という蓋を被せておきます。
その意味でのアイデンティティがしっかりとできあがることを「アイデンティティの確立」とか「自我の獲得」とか、あるいは「精神的自立」と言うのだと思っています。
そう考えると、あまり一般的ではありませんが、「アイデンティティ」は組織やグループにも当てはめることができると考えられます。
「世界が驚くような高額の給与を払い、一日の労働時間は最大5時間、週休3日。仕事内容は軽作業」
こんな矛盾する価値観をすべて並べるような企業あったとしたら、そこの企業アイデンティティには問題ありすぎということになります。たとえ中世の皇帝であっても「あれも、これも」という訳に行かないのです。短時間で高給が保障される、そのうえ経験がなくてもできる軽作業といったら受け子か強盗くらいしかありません。「闇バイト」が闇である所以はそこにあります。
ところが今や学校も、闇バイト並みのブラックさでつとに知られるようになっています。そしてどうしてそんなことになったのかと考えたとき、ふたつの要素が浮かび上がって来たのです。
ひとつは「学校アイデンティティの崩壊」で、もうひとつは「それでもやっていける仕組み」です。
【学校のアイデンティティとその崩壊】
教育とは何か――。
難しい問題ですが、法律上の定めはいたって簡単です。教育基本法第一条(教育の目的)にこう書いてあるからです。
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
日本の学校はまさにこの教育の目的・目標を大真面目に追求しようというものと言えます。
人格の完成を目指し=道徳教育を充実し
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた=十二分な知識・技能を持った、
心身ともに健康な=保健体育でしっかり鍛えた
「国民」
別な言い方をすれば『「徳育」「知育」「体育」のすべての面で学校がきちんと教育する』と宣言して戦後教育を始めたのです。
もうこれだけでお腹いっぱいですよね。さらに、
「じゃあ具体的に学校はどうするの?」
という問いに対する答えが、学校教育法第二十一条(教育の目標)に、
義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
として延々十項目も書いてあります。
余りに多すぎてげっぷが出そうなので、文末にまとめて置いておきましょう。
ただし教育基本法・学校教育法が初めて制定された1947(昭和22年)年段階では、まだ内容に統一性があり、教育のための時数や人員が合理的に配置されていました。昭和のあいだはおおむね節度があったと言えます。ところが(ここからが問題なのですが)昭和が終わって以降、平成不況の中で激しい突き上げを受けた学校は、時代の要請に従って、言われるままに無制限に、教育内容を増やしていったのです。
「平和教育」「人権教育」「性教育」「総合的な学習の時間」「特別の教科『道徳』」「小学校英語」「プログラミング学習」「キャリア教育(職場実習やキャリアパスポート)」「ICT教育」「環境教育」「薬物乱用防止教育」等々の追加教育。
それがきちんとできているか確認するための「全国学力学習状況調査」「教員評価・学校評価」「学校評議会」「地域連携」
もちろんその間に「非行対策」「不登校対策」「いじめ対策」「発達障害対応」「教員不祥事への対応」等々、昔はしなかったこともするようになりました。
これによって、学校のアイデンティティは崩壊しました。ひとことで行ってしまうと、学校は何者なのか、何をするところなのか、分からなくなってしまったのです。
【同床異夢:学校は何をするところか?】
ある人は、「学校は勉強するところだ」と言います。「しつけは親がするものだ」という人たちですから、親の道徳性・教育力に対する信頼の厚い人たちだともいえます。
別の人は「まず安心安全があっての学校だろう」と子どものいじめ対策、不登校対策、そして教師も危険ですから「不祥事対策」を最優先に求めます。だからと言って勉強はそこそこでいい、などとは絶対に思っていません。
企業人の一部は日本人の英語力に絶望しています。英語が下手なばかりの遅れをとっていると考えるこの種の人たちは、小学校から英語をやればなんとかなると英語教育の充実を求めます。またさらに別の人は「人材不足といったってほんとうに足りないのはIT技術者と教師・介護士などのソーシャルワーカー。子どものころからみんなにプログラミングを学ばせ、優秀だったらIT技術者、落ちこぼれたらソーシャルワーカーと、同時に不足の二か所に人材供給ができる、一石二鳥じゃないか」と考えています。
ただし英語を求める人もプログラミングを求める人も、読み書き計算は適当でいいとか、コミュニケーション能力はなくてもかまわないと思っているわけではありません。そうしたことは所与の条件――力をつけてくることは当たり前ですから、議論する必要がないと思っているのです。
教師たちは学校でこんなふうに思っています。
「これ全部、中途半端じゃないか。なにひとつ、しっかりとは身につかない・・・」
(この稿、続く)
【付録:学校教育法第二十一条】
第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
- 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
- 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
- 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
- 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
- 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
- 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
- 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
- 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
- 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
- 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。