「人生の現場を離れると違う価値が浮かび上がってくる」~老い⑤ 

 老人は役に立たないと思われる時代が、そう長かったわけではない。
 ただ、今がそうだというだけの話だ。
 また、価値はひとつではなく高齢者には別の価値がある。
 だから後悔することは少ない。

という話。

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(写真:フォトAC)

 
 

【いつから価値は若者に移ったのか】

 どの時代も若者は生き生きとして老人は疎んじられていたのかというと、そうでもありません。中国の仙人も西洋の魔法使いも有力な存在はすべて老人と相場が決まっていますし、日本でも「姥捨て山」では国一番の知恵者が山に隠された老婆だったということになっています。
 イギリスの法曹界では今も白髪のかつらをかぶる習慣がありますし、バッハやモーツアルトの時代の音楽家・王侯貴族もことさら白髪を気取っていましたから、年寄りであることが価値である時代は確かにあったのでしょう。

 いつから価値は老人から若者に移ってしまったのか。
 これは単なる思いつきですが、日本の場合、最近では1853年にペリーが浦賀に来航して、欧米の文化が勢いよく流入してからではないかと思っています。時代が激しく動き始めると、保守的に安定していた高齢層はついて行けず、若者が時代の主役になっていくのです。
 1543年の鉄砲伝来と以後の南蛮文化の流入、さらに遡って600年の遣隋使派遣も、若者中心文化を惹起したに違いありません。若い戦国武将の活躍や留学僧の政治参加がそれを示しています。西洋でとりあえず思いつくのは産業革命です。

 それ以外の、例えば江戸中期の農村となると変化は緩やかで、経験や年季がものをいう世界ですから、自然と老人が尊敬されるようになります。現在でも職人や伝統芸能では、そうした遺習があるはずです。 しかしそれは社会における地位の問題で、充実とか幸福とか言ったこととは必ずしも一致しません。
 高い地位や尊敬が与えられれば幸せで充実しているかというと(そういう人もいると思いますが)そうでもないのです。
 
 

【現場を離れると違う価値が浮かび上がってくる】

「わが庵は 都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいうなり」
《私の庵(いおり)は都の東南にあって、このように平穏に暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ》
という喜撰法師の述懐を、負け惜しみのように感じる人には理解できないことです。

「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月のころ」
 それが最大の望みだと歌った西行法師も同じでしょう。
 終わってみれば浮世の評価・地位の高低だのはどうでもいいことです。「うきよ」は「浮かれた世」であり、同時に「憂き世」なのです。

 子どもの頃、あるいは40代のころですら、私は老齢期の自分というものを想像できませんでした。50代となるとさすが具体的な計画を立てなくてはならないのですが、それでも想像するのは困難だったのです。
「晴れたら田畑を耕し、雨なら昔読んだ本を読みなおしたり新しい小説に目を通したり、無為を苦にせず、気持ちを揺さぶられることなく、穏やかに暮らしていく」
 そんな曖昧な姿しか思い浮かばなかったのですが、実際に始まってみると、案外これがいいのです。ひとはそれなりに生きていけるものです。
 
 

【もちろん問題もある】

 体力の衰えは想像以上でした。あちこちに不調が出てくる。
 多くの教員は1日に1万2000歩以上は必ず歩いています。今日はちょっと疲れたなと思って万歩計を見ると1万6000とか18000歩ということもあります。高学年の担任、あるいは中学校の教科担任は階段の上り下りも半端ではありません。それが一気に止まるのですからダメになるわけです。
 ウォーキングにいそしむ老人も少なくありませんが、半分かけ足の1万2000歩に匹敵する運動を続けるのは容易ではありません。

「嫌な奴と付き合わなくてもいい」という点は、良い部分として挙げようかと迷ったのですが微妙です。
 日本人の人間関係は大半が職場でつくられますから、そこから外れると人間関係自体がごそっとなくなってしまうのです。
 中でも現代の教員は「アフター・ファイブ」も仕事の時間ですから、飲み仲間もゴルフ仲間もボランティア仲間も、それどころか近所づきあいさえほとんどなくきたのです。今さら友だちのつくり方さえ分かりません。
 嫌な奴と付き合わない人生は、いい人とも出会えない人生で、ひとから学ぶということのない人生です。

 それだって大きく個人差のある問題で、退職を機に人間関係を広げる人もいそうですから心がけ次第でしょう。しかしこの点に関してのみ、私は少しだけ後悔しています。

(この稿、終了)