カイト・カフェ

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「教師が言葉で子どもを殺してはいけない」~通知票の書き方

「遅刻の常習犯です。とにかくいろいろな物をなくします。だらしなさは完璧です。私にはどうしたらいいか分かりません」
「間違いなく失敗に向かっている。クラスの道化で、他の生徒の時間を浪費させている。絶望的」

 通知票にこんなことを書かれた子はどんな気持ちがしたのでしょう? 持って帰って親に見せた後、この子はどんな目に会ったのでしょう? 何か可愛そうですよね。

 さて、この通知票は受け取った主がはっきりしています。上がウィストン・チャーチル9歳のときの通知票。下がジョン・レノン高校生のときのものです。

 私も最初の通知票で次のような書き方をして子ども傷つけました。
「クラスの副学級長だったが、見るべき仕事はしなかった」

 見ようによってはこの上なく正直な書き方です。しかしこの子は仕事を「しなかった」わけではなく「できなかった」のです。以前お話ししたように、私は最初のクラスをめちゃくちゃに荒らしてしまいました。この子は典型的な「よい子」で、本当は担任や親に喜んでもらえる仕事をしたかったし、実力的には十分できる子でした。しかしきちんとやればやるほど担任にすり寄るイヤな奴と思われる危険がありましたから、耐えて我慢していたのです。
 そんな子に「見るべき仕事はしなかった」は酷ですよね。

 ひとりの人間の評価を、たった数行で行うのはそれ自体が傲慢です。通知票というのは評価のほんの一部分であって、全体評価は一年を通じ、繰り返し本人や保護者に伝えられるべきものです。日ごろから厳しいこと辛いことを言っていれば、通知票くらい甘く優しいものであってもいいということになります。

 また、通知票は書かれたものとして何年も、時には何十年も残るものです。二十歳になって、あるいは三十歳になって、その時あらためて眺める通知票が勇気を与えるものだったらどんなにすてきでしょう。逆に、二十歳・三十歳のときに取り出した通知票の、厳しく辛い表現なんて何の意味もありません。

 点数や記号(◎や○や△)で表される評価は厳正でなくてはなりませんが、所見欄は温かな言葉でみたされるべきです。

 そろそろ通知票のシーズン。所見欄、お互いに心して書きたいものです。