「仏教何でもあり、しかしそれぞれ中身は違う」~父が子に語る仏教概論③ 

 お釈迦様は自分の会得した真理は誰にも理解できないと思っていたらしい。
 だから世の中に知らせることに不熱心だったし、誤解も恐れなかった。
 やがて仏教はあれもこれも吸収して巨大になり、
 そのぶん複雑でさらに分かりにくいものになった。

という話。

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 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。
 
 

初転法輪-初めての講義】

 バラモン教の主神である梵天ブラフマンまたはバラモン)に熱心に勧められて、釈迦が最初に真理を語ろうとした相手は、自らが苦行を放棄したときに蔑んだ5人の修行者でした。
 彼らはゴータマをバカにしていましたから真面目に聞くつもりもなかったのですが、釈迦がこちらに向かって歩いてくる姿を見ただけでその身にただならぬことが起こったと理解し、話を素直に聞くことにしました。
 釈迦はここで中道、四諦と八正道という仏教の基本概念を語り、最初の講義とします(初転法輪)。5人はすぐさま釈迦の最初の弟子となり、ともに教化と伝道の旅に出るのです。

 旅の途上で彼の神通力を見た人々は次々と帰依し、三迦葉と呼ばれるカッサパ三兄弟のように自ら率いる数百人の教団を丸ごと入信させてしまうこともあったため、釈迦の教団は瞬く間に1000人を越える大集団に成長してしまいます。
 釈迦はこうして80歳で入滅するまで、教団の指導に当たりました。

 

【誰も真理を理解できない。だから自由に考えなさい】

 おそらく釈迦は最後まで、自分の悟った真理は誰にも理解できないと思っていたのでしょう。教義を厳しく管理し、体系づけようという気持ちもまるでなかったのかもしれません。自らの言葉を文書化することを許さず、その教えは死後200年以上も記憶と口伝だけで保持されます。
 教団は釈迦の死後すぐに大結集(だいけつじゅう)と呼ばれる集会を開いて全国から500人の名僧(五百羅漢)を集め、釈迦の教えを整理統合しようとします。
 しかし釈迦の口から語られた言葉は難解で、しかも丁寧に細かく説明しようともしなかったためか、信徒たちの間に大量の異説が生じます。

「世尊(釈迦の尊称)はさまざまに語ったが、一番大事なのは輪廻転生だろう」
「いやいや、やはり世尊の言葉そのものに準拠すべきだ」
「世尊の教えをひたすら唱えることが大事だということじゃないか?」
「我々が本当に大切にしなければならないのは教団の規則だ」
「世尊は霊魂の存在を否定したが、ならば輪廻転生するのは何だ?」
「世尊はどう言った?」
といった調子です。

 そのうち「私はこんなふうに聞いたんだ」などと本当は誰が行ったか分からないような話を持ち出す者や、「ここまできたら、とてもではないがお前たちとはやっていけない」と袂を分かつ者まで出てきて、教団は瞬く間に四分五裂し始めます。
 それぞれが自分たちの正当性を訴え、次第に文書に残し始めると、教団はわずかの間に20もの分派に分かれて併存したと言います。そこにさらに大乗仏教と呼ばれるグループがかぶさり、仏教はどんどん巨大に、複雑になっていくのです。



【仏教何でもあり、しかしそれぞれ中身は違う】

 釈迦の言葉をまとめたものを「経蔵」、教団内の規則をまとめたものを「律蔵」と言います。これらはさまざまに解釈され議論となり、そのたびに注釈書や解説書が書かれました。それをまとめたものを「論蔵」と言います。

 西遊記玄奘三蔵法師を知らない人はいないと思いますが、三蔵法師の「三蔵」はその「経」「律」「論」のことで、三蔵法師とは「三蔵に長けた僧侶」、普通は古代インド語(サンスクリット)で書かれた三蔵を中国語に訳したことで功績のある人を言います。
(ですから三蔵法師と呼ばれる人は玄奘だけではなく、義浄三蔵法師だとか法月三蔵法師とか呼ばれた人もいます)

 玄奘は27歳でインドに密航し(629年)、42歳で経典657部を中国に持ち帰って664年に62歳で亡くなるまで、ひたすら翻訳の仕事をつづけました。しかし結局、持ち帰った経典の三分の一しか訳せなかったといいますから、そもそもがとんでもない量だったのでしょう。
 彼の訳業の一部分である『大般若経』16部600巻は漢字にして約480万字だそうです。400字詰め原稿用紙で1万2000枚ですから気の遠くなるような量と言えます。

 中国における仏典の翻訳は2世紀ごろ始まって11世紀くらいまでに延々と続けられましたが、その間に玄奘のような献身的僧侶によって次々と新しい経典が輸入され、そのたびに翻訳されて中国社会に定着していきます。
 しかしそのうちに「いつ頃書かれたものか」、「だれが書いたものか」といった重要な部分が忘れられ、過去も現在も、真も偽もわからないものがあふれ始めます。そしてその結果、ありとあらゆる要素が入り込んでしまったのです。

 日本の状況に照らし合わせて言えば、比叡山延暦寺千日回峰行のような異常なまでの苦行を強いる面もあれば、ひたすら祈るがよいとする念仏宗の側面もあり、座禅を組む一派がいて、護摩を焚いたり忍者のような印を結んだりといった呪術の側面を持っていたりするのはそのためです。

 仏像を見ても、そこには釈迦像があって、阿弥陀仏像があって、薬師如来像がある。そこまではいいのですが、梵天帝釈天といった元はバラモン教(現在のヒンズー教)の神様がいて、阿修羅や迦楼羅(カルラ)といった鬼なのか怪物なのかよくわからないものがいる。そうかと思うと“日本の神様は日本人のために仏さまが姿を変えて現れたもの”(本地垂迹説)といった話まで出てくると、まったく訳が分からなくなってしまいます。

 こうなるともう仏教何でもありで、全部が仏教なのですが、“座禅を組みながら護摩を焚いたりしない”“奈良の大仏の前で南無阿弥陀仏と唱える人はいない”といった意味では別の仏教だとも言えます。

 仏教、何でもあり、けれど中身は違う――それがこの宗教の分かりにくさのひとつの理由です。

(この稿、続く)