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「10月2日、今日は守護天使の日」~囁く天使と怒れる菩薩①

 今日は守護天使の日、キリスト教で守り神の記念日。
 しかし天使は、力づくでキミたちを悪から守ってくれるわけではない。
 そこが仏教の、愚かな衆生も縄をもて導き、地獄までも救いに行く、
 菩薩とは違うところだ。
という話。
(写真:フォトAC)

守護天使の日(天使の囁き)】

 今日、10月2日はキリスト教で「守護天使の日」とされる記念日だそうです。
 守護天使についてはまったく知らなかったのでWikipediaで調べたら、
 守護天使(しゅごてんし、英語: Guardian angel)は、一人一人についていて守り導く天使のこと。(中略)キリスト教における守護天使に関する教義は神学者トマス・アクィナスによって集成されている。トマスによると、全ての人々、クリスチャンであれ、それ以外であれ、たとえ大罪人であれ、決して離れることのない守護天使がついている、とする。守護天使とその守護する人間との関係について、守護天使は、人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にも、それを止めさせることはしないが、その心を照らして良い方向に向けて霊感を吹き込むことだけをする、という。さらに守護天使とのコミュニケーションについて、人は天使に語りかけることが可能で、天使たちはその必要性、希望、欲求によって人間に語りかけ、啓蒙するとしている。Wikipedia 「守護天使」
のだそうです。

 全ての人々、クリスチャンであれ、それ以外であれ、たとえ大罪人であれという部分は「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや(善人だって極楽往生できるのだから、ましてや悪人が《極楽往生》できないわけがない)」と言った親鸞浄土真宗に似ていますが、人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にも、それを止めさせることはしないという考え方は、私の知る限り、仏教にはないと思います。

【西洋的優しさと冷たさ、東洋的執着とこだわりのなさ】

 私の知っている仏教は、東大寺三月堂の擁する「不空羂索観音」(*1)みたいに、救いようのない者、救われなくてもいいとさえ思っている衆生まで、縄や布で絡め取って浄土へと引き上げようとする――そうした信念に満ちて力強く、容赦のない宗教です。地蔵菩薩は必要とあらば地獄であろうと餓鬼道であろうと、飛んで行って人々を救い出そう八面六臂の大活躍をします。それが仏教の在り方です。
 
 そんな仏教に対してキリスト教はまるっきり冷淡かと言うともちろんそうではなく、ルカの福音書では有名な「あなたの敵を愛し、あなた方を憎むものに親切にしなさい」の少しあとで、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(6章31節)と、ある意味で差し出がましいほどに積極的だったりします。同じ状況でも孔子なら「己の欲せざる所は人に施すなかれ(あなたの望まないことをひとにしてはいけません)」(論語・衛霊公)と消極的な対応しかしない場面です。
 
 消極的と言えば仏教の開祖のゴータマ・シッダールタ(釈迦)も、布教に関してまるっきり消極的でした。自分が会得した悟りはあまりにも深く高邁で、一般人の解するところではない。話したところで理解されないなら話すだけ無駄だと、そんな感じで超然として黙してしまったのです。
 それをバラモン教の神々は悲しみ、最高神である梵天(ぼんてん:インド名ブラフマン)までが出てきて拝み倒し(これを梵天勧請と言います)よくやく語り始めたものですが、これと言った強制をするでもなく、間違った解釈も放置するので仏教はあっという間に矛盾を含んで広がり、日本に渡ってからも五系十三宗五十六派と呼ばれるほどに分裂して今も内容は矛盾したままです。その間だれも、教義を整理して異端を炙り出し、切り捨てたりしようとした形跡がありません。
 
 一方キリスト教は早くも紀元65年ごろから95年ごろまでの間に新約聖書の基本部分を完成させ、325年にはニケーアの公会議で教義を統一して宗教としての、あるいは教団としての形を整え、そこから一気に強力な布教活動をはじめて世界に広がっていきます。

【感受性の基盤の違い】

 単純な図式で言えば、キリスト教は仲間をつくり仲間を助けて団結させることには熱心でも、去って悪の元へ向かおうとする者には冷淡です。
 最終的には神の軍団の一員として、世界戦争(ハルマゲドン)で堕天使の軍と戦わなくてはなりません。そのとき敵として相まみえるのが、あのとき袂を分かつて悪の道へ歩いて行ったかつての知人だとしても、それはやむを得ないことです。「スター・ウォーズ」でダース・ベーダ―がルーク・スカイウォーカーと戦うようなものです。いつか決着の日は来るのです。

 それに対して東洋の思想家・宗教家たちは常に、共に暮らす仲間たちに対しては恬淡としてこだわらないのにも関わらず、悪に進もうとする者には執着して絡みついて離さないところがあります。仏教では一度ひとを救い損なうと、その人は延々と輪廻の苦しみを受け続けなくてはなりません。ですからなにがなんでも、機会のあるうちに悪の道から引き釣り出さなくてはならないのです。
(この稿、続く)