カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「如是我聞とシェマー」~オレの話を聞け!

 自分ができるからといって 誰もができるとは限らない
 生徒が話を聞かないのは 授業のせいだと言ってはいけない
 本来 学問の場では 話の良しあしに関わらず
 まず「聞く」のが基本だ
 二の四の言わず まず「聞け!イスラエルよ!」と言うではないか

という話。

f:id:kite-cafe:20191119053607j:plain(ジャン・デルヴィル 「プラトンの学校」)

【自分ができることでも、ひとができるとは限らない】

 知育・徳育・体育、それらを総合的に見れば日本の学校教育は世界最高水準、と言うか断トツの一位だと私は思っています。しかし世の中も政府もまったくそんなふうに思っていないらしく、2006年には「日本の教育は死んだ」ということで、内閣府に「教育再生会議」がつくられました。
 「再生」、ですよ?

 私はこの件に関して相当に腹を立て、10年(本当は13年目)恨みに思っているのであえて説明しましたが、実はこれからお話しするのは再生会議中の一エピソードで、「日本の教育は死んだ」は関係ありません。
(しつこいですが、「日本の教育は死んだ、教育は死んだ、教育改革が殺してしまったのだ」ということなら、別の機会に話してもいいと思っています)

 さて、その教育再生会議で学習塾が話題となったことがあって、座長で当時理化学研究所の理事長だった野依良治氏が、「塾はできない子が行くために必要だが、普通以上の子どもは禁止にすべきだ」「我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と学習塾の禁止を提案したことがありました。
 この件について同席した委員の一人から「ノーベル賞受賞者に『オレは塾に行かなかった』と言われても・・・」と戸惑いの発言があったようですが実際その通りです。
「俺ができたのだから、お前もやれ」
はあまりにも無茶な物言いです。自分ができることでも、ひとができるとは限りません。

 この話を思いだしたのは、昨日のYahooニュース(元記事は週刊ポスト)に次のような文章を見たからです。

 朝礼も“一糸乱れず整列し、校長の話をありがたく聞かなければいけない”という暗黙のルールに縛られていた。
「そのルールを取り除いてしまったらどうだろう──発想の転換です。生徒が騒ぐとすれば校長の話がつまらないせいで、面白ければきっと耳を傾けるはずです。そこで私は、生徒が思わず聞き入るような、とっておきの面白い話を準備するように心がけました」

(中略)
「授業も同じです。教員には、“なぜ生徒が自分の授業を聞かないのか”、それは自分の教え方に問題があるのではないかと考えてほしい。同時に生徒には、叱られるから騒いではいけないのではなく、どうして騒いではいけないのか、自分で考えてほしいのです」
(2019.11.18 NEWSポストセブン『校則全廃校長、荒れた学校で「怒鳴る教員」をどう変えたか』

 

【面白くない話は聞かなくてもいいのか】

「子どもたちが聞かないのは、話がつまらないからだ」
という言い方はよく耳にします。特に言われるのは成人式の祝辞です。実際にたいていの話は面白くないし、参加者も騒ぎっぱなしです。

 しかし新星人―間違えました―新成人が静かに「挨拶」を聞き始めて“これはつまらない”と判断してから騒ぎ始めた例を、私は見たことがありません。うるさい場合は最初からうるさい、静かな場合は最後まで静か、それが私の知っている成人式の姿です。話が面白いかどうかは二の次です。

 さらに言えば成人式に限らず、“挨拶”なんて面白くないのは当たり前で、内容に制約がありすぎて工夫しようがないのです。せめて“つかみ”の部分だけでも面白く、と小細工をすればろくなことがありません。
「『長靴事件』があって長靴業界はだいぶ儲かったのでは」
「私は忖度します」
「復興以上に大切なのは高橋さん」
「私は雨男。防衛相になって台風が三つ」

 みんな挨拶の中で、奇をてらって失敗した例です。

 内容にかかわらず、聴衆は講演者の、弟子は師の,子どもは大人の話を黙って聞くべきだ――それが私の倫理観です。ひとの話が最初から最後まで面白くためになるなんてことはめったにありません。面白い部分が1割もあればそれは極めて優れた、聞くに値する話です。それを“9割がたつまらないから聞かない”というのではどうしようもない。

 まず聞く。聞いてためになるところを拾い出す。もし一つも見つからなくても、それは現在の自分が未熟だから拾い出せないだけかもしれないと考えて(実際にそういうことが多い)、とにかく覚えられることは覚えておく、それが学徒のあるべき当然な姿です。それがないと学習は成立しません。

 

【校長講話は特別だけど】

 もちろん例外はあります。校長講話などは典型です。
 そこで私は、生徒が思わず聞き入るような、とっておきの面白い話を準備するように心がけました
 当然です。校長講話はそうでなくてはなりません。なにしろ一カ月にいっぺん、あるいは二カ月にいっぺんしかないのです。しかも話すのは子どもの教育に何十年というプロ中のプロ。
 世の中にはすごい人がたくさんいて、内容だけなら校長講話をはるかに上回る素晴らし体験や知識を語ってくれるかもしれませんが、“子ども相手”という条件をつけるとかなり色あせるのが普通です。子ども相手のプロにはかないません。
 校長講話は面白いのは当たり前で、それがつまらないようでよほど無能と思われても仕方がない(もちろん講話だけが下手、という校長先生もおられますから、別のところで得点してもらえばいいことなのですが)。

 しかし面白い校長講話ができるからと言って、
 授業も同じです。教員には、“なぜ生徒が自分の授業を聞かないのか”、それは自分の教え方に問題があるのではないかと考えてほしい。
というのはおこがましい。

 現場の先生は日に何時間も子どもの前に立っているのです。それを月1回の校長講話なみに面白くしろといったって無理がある。
 しかも観衆は名うての小中学生です。彼らは世の中の面白いものを知り尽くしています。そんな子どもを相手にM1(エムワン:漫才コンクール)よりも楽しく、スマホゲームより面白い授業を毎時間提供しろと言ったってできっこありません。
 管理職も10年を越えると最前線の苦しみがまったく分からなくなってしまうようです。

 

【如是我聞とシェマー】

 仏教経典の多くが「如是我聞(にょぜがもん)」から始まります。「このように私は聞いた」という意味で、十大弟子のひとりで「多聞(たもん)第一」と言われたアーナンダが仏陀の話を記憶していたという形式をとるためです。彼が実際に聞いた内容であることが重要なのです。

 聞くというのは学問の最初の一歩であり、聞くこと自体に意味があります。聞いた後でその通りにするか、批判的にとらえるのか、疑念を持つかは別の問題です。とにかく聞いて心と頭に入れること、それがないと何も始まりません。

 ユダヤ教でも日に2回お祈りする際に最も使われる祈りの言葉は、「イスラエルよ、聞け!(シェマー、イスラエル!)」から始まります。そのくらい「聞く」というのは大切なことなのです。
 子どもにしつけるべき最初の項目で、大人の反省は二の次でかまいません。
(と私は思います)