カイト・カフェ

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「校長先生の話は、なぜ長くて退屈なのか」~良き話は血肉となって、誰に言われたかを覚えていない  

 校長講話は子どもだけでなく、職員たちも聞いている。
 その意味では緊張感が高いはずなのに、印象に残るロクな話がない。
 それはもしかしたら入学式や卒業式の式辞のせいで、
 私たちが真剣に聞いていないからかもしれない。
 という話。(写真:フォトAC)

【校長講話は職員も見ている】

 今はそういう人もいないのかもしれませんが、昔は校長講話が始まるとすぐにメモを取り始める先生が結構いました。好意的に取れば「いつか参考になる教育上のヒントでもあれば」あるいは「クラスの子に理解できない部分があれば、あとでかみ砕いて話してあげよう」といった配慮からなのでしょう。なにしろ小学校の校長先生などは小学校1年生から6年生まで――別な言い方をすれば赤ちゃんの出口から大人の入り口までの子どもを同時に相手にして、理解できるように話さなくてはいけないのですから大変なのです。
 ところがそうして始まったメモを取る手が途中でハタと止まり、中にはペンを挟んだままノートを閉じてしまう先生もいたりします。
 
 とても感動的ですばらしい話なので思わず聞き入ってしまったとか、改めて子どもに話し直すまでもないしっかりとしたいい話だったという場合もないわけではありません。しかしたいていそれは「この話つまらない。メモを取る価値もない」という合図です。少なくとも校長先生にはそう伝わります。
 ノートを閉じた先生にそうした意図があるかどうかは分かりませんが、わざとやっているとしたら相当に意地の悪いやりかたです。

 校長講話を聞いているのは子どもだけではない、職員が聞いて評価をしている――そこに配慮の行き届かない校長先生はめったにいません。ですからすべての校長先生は気合を入れて校長講話に取り組んでいるはずなのですが、それでもなお「つまらない、長すぎる、退屈」といった評判が立つとしたらそれはなぜなのでしょう? 

【確かに話の下手な先生もいる】

 もちろん原因のひとつは、校長先生に自覚がない、あっても才能がない、という場合です。
 「校長」と名のつく人は全国に何万人もいますから、中には先生たちから評価されることに無頓着な人もいるかもしれません。しかしそれより多いのは「なかなか人を感動させたり喜ばせたりする原稿が書けない」という先生方です。

 人にはそれぞれ個別の才というものがあり、何も話のうまいことだけが校長の資質ではありません。子ども思いできめの細かい指導ができるから校長になった人もいれば、職員の心の掌握に長けているからその地位についている人もいます。ですからそれぞれの才に応じたやり方で学校を掌握すればいいだけで、多少、講話が見劣りするからと言って見放してはいけません。
 シンデレラだってクロネコのルシファについて、
「誰でもひとつぐらいはいいところがあるものよ」
と言っているくらいですから、長い目で見てあげましょう。

 しかしそうした、例外的に講話の下手な先生を除いて、それでも「つまらなく、長く、退屈な講話」という印象があるとしたら、そこには聞き手の問題も含めて総合的に判断する必要が出てきます。そこまで加味しないと公平ではないからです。

 昔、成人式のあとのインタビューで、来賓あいさつについて、
「あんなくだらねェ話、最初から聞いてねェよ!」
と喝破したふうの新成人がいましたが、聞く前から“くだらない”と判断するのは生意気です。同じように校長講話が退屈なのも、もしかしたら人々が最初から聞こうとしていなかったからなのかもしれないのです。

【ほとんどの子にとって、式辞が楽しいわけがない】

 私は、校長先生の話が「つまらない、長すぎる、退屈」なものとして記憶されるのは、基本的に入学式や卒業式での式辞の印象が強すぎるからではないかと疑っています。月に一度、あるいは週に一度の校長講話が退屈だとしたら校長・児童生徒、双方にとって不幸ですが、入学式の式辞などが退屈なのは、あまり校長先生には罪はないのです。なぜなら式辞・あいさつとはそういうものだからです。

 考えてみましょう。
 例えば入学式の式辞。あれは誰に向けて行われるものですか?
 言うまでもなく、新入生、そして保護者、さらにはわざわざ来てくださった来賓の方々にむけて行われるものです。つまり、在校生はすっぽり抜けているのです。入っても「仲よくしてくださいね」程度のことです。そんな話が在校生に面白いはずがありません。
 小学生は計6回経験する入学式のうち5回、中高生はそれぞれ3回経験する入学式のうち2回が「自分にとってはどうでもいい話」なのです。退屈なのも仕方ありません。そして退屈な話は長く感じるに決まっています。

 しかも式辞の体裁は概ね決まっていて、時候を語り、新入生におめでとうと言い、簡単な学校紹介の上で校長としての願いを入れる。一通り話したら保護者にも改めておめでとうと言い、来賓に御礼を言って最後は決まり文句、
「以上を持ちまして、私からの祝辞といたします」
 年号、年月日、職名、氏名。
 もう完全に決まりきったものです。

 これが卒業式なら卒業生との思い出を語り、卒業生のすばらしさを紹介し、といった場面もあるのですが、新入生なんて校長先生にも未知です。独創的であるべき「校長としての願い」も、校長先生自身が交代しなければ毎年ほぼ同じ。願いはコロコロ変わるようなものではありません。
 校長先生の話が「つまらない、長すぎる、退屈」となるのは、そうした事情があってのことではないかと私は思っています。式辞のほとんどは他人事、しかも中身がほぼ同じなのです。

【良き話は血肉となって、誰に言われたかを覚えていない】

 私は校長先生の話を、よく記録する教員でした。少なくともメモを取るフリくらいはして校長先生にストレスを与えるのを趣味としていました。嫌な部下ですね。
 しかしそうした経験からすれば、どんなに低く見積もっても、校長先生の話の半分以上は有益なものでした。少なくとも子どもが真剣に聞いて損になるようなものではありません。
 ただし最初の方で申し上げたように、年齢の異なる子どもたちに同時に語り掛けるわけですからどうしても無理が出てきます。担任教師の方で改めて解説することはやはり大切だったのかもしれません。
 
 え? それにしても校長講話に印象が残っていないって?
 ――それは知識が血肉になっているからです。
 考えても御覧なさい。年間200日も話を聞かされたはずの担任の言葉さえ、“担任の話”という形では残っていません。しかし心の中にしっかりと根付いているのです。