「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児」~孫のハーヴに見る4歳児の成長1

 孫のハーヴが間もなく4歳になる
 幼児期最大の転換点
 4歳児の何が大切で 何を目指さなくてはならないか
 まず一般論から考える

というお話。

f:id:kite-cafe:20190610070134j:plain(ヴィンチェンツォ・イロッリ 「天使の音楽家」)

 

【女の子は天使の羽根が折れ、男の子はバカだから可愛い】

 孫のハーヴが間もなく4歳になります。
 私はこの“4歳”という年齢に特別の意味を感じていて各別の思いがあります。

 ひとつは四半世紀前に娘のシーナが“4歳”になったとき、その背中から天使の羽根が落ちてしまったからです。
 それまでは何をやっても可愛く、愛くるしく、この世に天使が降りてきたのではないかと何度も背中に手をあて羽根の在り処を探ったりしたのに、“4歳”の声を聞いたらとたんに生意気になり可愛さが半減してしてしまったのです。いや可愛いことは可愛いのですが、それまでの無条件の可愛らしさといったものとは異質のものに、変化してしまったのです。

 考えてみれば大人を大人とも思わない小賢しい女の子、NHK「チコちゃんに叱られる」のチコちゃんは5歳という設定です。面白いキャラクターですが、あれを“可愛い~”と言って抱きしめたくなる人はいないでしょう。
 記憶にはないのですがシーナの5歳は、4歳よりももっと可愛くなかったのかもしれません。

 弟のアキュラの方は4歳になっても格別の変化はありませんでした。ですからから4歳で可愛らしさを失う現象は、女の子に特有のものなのかもしれません。
 アキュラの場合はそれまでと同様に泥まみれで汚らしく、賢くなく、と言うかあからさまに表現すれば“バカ”で、バカだから可愛いといったところはありますがそれ以上ではありません。

 これはおそらく我が家に限ったことではなく世間一般にありがちなことで、小学校の低学年あたりを見ていても女の子は総じて小賢しくて可愛くなく、男の子はバカだから可愛いという感じが抜けません。さらに大人になっても、多くの男性は“バカだから可愛い”部分を失わないのではないように思います。ただし私の歳まで進むと可愛いも抜けてしまい、ただの“バカ”しか残らなくなってしまいます。

 

【『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児】

 4歳にこだわるもうひとつの理由は、私が一時期子育てのバイブルのように大切にしていた高垣忠一郎という人の「登校拒否・不登校を巡って」(青木書店 1991)の中にあった次の一節のためです。

 三歳児は他のだれにやってもらうのでもない。まさに「自分でする」ことになによりもこだわる。それが周囲の大人の「いけません」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じる。
  (略)
 しかし、まだこの段階では「自分で」に重点が置かれ、自分しか眼中にない。それはまだ「からの自由」であって「への自由」の達成ではない。社会的な秩序や要請に自らを合わせて行くことを学ばなければならない。
  (略)
 彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という「~ダケレドモ~スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆく。ほぼ4歳前後のことである。
  (略)
 そのことは、子どもの内面で自ら価値あるものを選択し、より高次の価値のためにより低次の価値を従属させるという営みが行われることである。
  (略)
 そこに人格の自立性の最初の獲得がある。
「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる誇り高き4歳児」の誕生である。

 いい文章でしょ?

 

【抑えるべき欲望と押さえられては困る欲望】

 私たちはしばしば「我慢強い子どもを育てたい」と言い「もう少し欲望が抑えられるといいですね」などと指導したりしますが、何でもかんでも我慢すればいいというものではありません。“欲望”の中には我慢してもらわなければならないものと、我慢されては困るものの2種類があるからです。

 「怠けたい」「遊びたい」「ほしい物は欲しい」「勉強はしたくない」「もっと遊んでいたい」などはしばしば抑えてもらわなければならない欲望です。
 それに対して「金メダルを取りたい」「東京大学に入りたい」「もっと成績を伸ばしたい」「親を安心させたい」「みんなから慕われるような立派な大人になりたい」は、これを我慢されたら親も教師も困ります。
 高梨の言う、 より高次の価値のためにより低次の価値を従属させる営みはまさにそのことで、より高い価値を獲得するために低い価値を諦める、抑制するということに他なりません。

 小中学生くらいについて言えば、成績を上げるために遊びたい気持ちを抑えるとか、児童・生徒会の仕事のために日曜日を犠牲にするとか、あるいはお母さんに楽をさせるために家事を手伝うとかいったことになります。
 それぞれの価値が逆転する(例えば遊ぶために勉強を犠牲にする)ようでは、大人がたまったものではありません。

 

【4歳児が目標にすべき三つの価値】

 では4歳児にとってより高次の価値とは何でしょう?

 それは基本的に、
 「初歩の社会的ルール」
 「年齢相応」
 「お父さんやお母さんに喜んでもらったり誉めてもらうこと」

の三つだと私は考えています。

 「初歩の社会的ルール」を、私は「ジャンケンポン、カワリバンコに、ジュンバンコ」と表現してしています。他にもありますがこの三つで代表させます。じゃんけんで負けたらどんなに欲望が強くとも諦めなければならないという掟は、子ども社会で最上位にある規範です。

 「年齢相応」は「3歳だから」「4歳だから」といったふうに年齢の階段を上るたびに求められるようになる「その年齢らしさ」のことで、「お兄ちゃんだから」とか「(保育園・幼稚園の)年少組だから」とかいったものもここに含まれます。その年齢にはその年齢にふさわしい態度や行動があると、自然に考えられる基準です。

 「親に喜んだり誉めてもらうこと」については、改めて説明する必要もないでしょう。ある意味で上記二者(「初歩の社会的ルール」と「年齢相応」)が価値をもつのも、親や周囲の人たちが喜んだり誉めたり感心したりするところから、価値としての地位を高めていくのかもしれません。

 いずれにしろ、4歳になったときには「より価値の高い何かのために、より価値の低い何かを諦めることのできる子」「我慢できる子」「それを誇りの思える子」になっていなくてはなりません。

 大変なことのようにも思えますが、普通の日本の子は自然にそう育ってきます。
 なぜなら親も祖父母も、保育園や幼稚園の先生も、あるいは子どもに関わるその他すべて大人たちも、日本では我慢することに価値を置く人が多いからです。それを基準に誉めたり叱ったりします。
 「一人で生きなさい」「いま自分が何を欲しているか明らかにしなさい」「人に勝ちなさい」と教えられて育ってくるどこぞの国の人たちとは根本的に異なるのです。

 逆に言うと、もし自然にそのようになってこないとしたら、どこかに瑕疵があったのではないかと疑ってみる必要があります。これについては改めて考えましょう。

 さて、間もなく4歳の私の孫のハーヴ、どんな4歳児になりつつあるのでしょう?

                                              (この稿、続く)