カイト・カフェ

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「私たちが奴隷になっていくことへの憤り」~人生のハンドルを自分で握る者②

 文明社会で人は依存的に、つまり幼児のようになって行く。
 大人になるべき時にも、その機会を取り逃す。
 長じては自ら進んで人生のハンドルを放棄してしまう。
 私たちはただ、誰かの恩情にすがる奴隷となりつつあるのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【文明人は幼い。幼児ならもうしばらくは幼くてもいいが・・・】

 文明人とは自分たちがやっていたことを、他人や機械やシステムに代行してもらう人たちのことです。したがって文明人はどうしても依存的になりがちです。一般に依存的な人間を、私たちは「幼稚だ」と表現します。

 もちろん幼稚であってもいい人間もいます。さしずめ我が孫2号のイーツなどは、もうしばらく幼稚でいてもかまいません。4歳ですから。
 しかしこの子にもそう遠からず頑張ってもらわなくてはならないでしょう。そうしないと「より価値の高いもののために価値の低いものを諦める」――つまり高垣忠一郎が「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる」(*1)と書いた「誇り高き4歳児」になる前に5歳の誕生日を迎えしてしまうからです。
*1・・・高垣忠一郎「登校拒否・不登校を巡って」(青木書店 1991)から引用
 
 この引用部分の前に、高垣はこんなことを書いています。
 三歳児は他のだれにやってもらうのでもない。まさに「自分でする」ことになによりもこだわる。それが周囲の大人の「いけません」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じる。(中略)
(したがって彼らは)がむしゃらに自我を主張し、反抗するのではなく、自らの要求や意志と外的な要請との矛盾を調整することを学ばなければならない。
 彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という「~ダケレドモ~スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆく。ほぼ4歳前後のことである。

【12歳にして4歳の発達課題も克服できていない】

 この文章を読んだ後で、先日紹介した《クラス内で君臨していた8人組から仲間外れになった元ナンバー2の女の子(小学6年生、12歳)》のことを考えると、実に陰惨な気分になってきます。その子は12歳にもなって4歳児の発達課題を克服できていないのです。しかも周囲のおとなは誰も、親も教師もその他の人々も、彼女の課題を指摘し、乗り越えさせようとしません。成長を促す人はひとりもいないのです。
 
 いじめ問題では常に「いじめる側が100%悪い」「いじめられた側が変化を求められることはあってはならない」とされ続けたからです。変わるべきは周囲の人々、特に仲間外れにした子たちで、本来は原状回復(元のナンバー2に暖かく迎え入れること)をすべきだがそれができないので、事態はまったく動かないことになってしまったのです。
 私も含め、結局誰からも本質的な支援は受けられなかったのですから、その意味では本当に可哀そうな子でした。
 ただそれでも12歳です。まだ間に合う可能性はありました。問題は大人です。

【大人たちの「あれもこれも」】

 「自治会の仕事の大部分は、政府・地方公共団体がすべきこと」という考え方に、私はいったん与してもいいように思います。その上で、政府や地方公共団体自治会から仕事を取り上げられるだけ十分な税金を、あなたは払うかどうかと言われたとき、素直に頷く気持ちにはなれません。とんでもなく高率の増税が予想されるからです。
 
 例えば地域にある公共施設(ゴミの集積所や児童公園、駅周辺の道路等)の清掃や整備、草むしりや樹木の整枝など、それらを地域住民が満足する水準で行おうとしたらどれほどの人数を雇わなければならないか。そのための費用がどれほどかかるのか、考えただけでも空恐ろしいものがあります。夜間、市内を巡回して防犯灯の付け替えだけをする専門公務員というのも生まれてくるかもしれません。
 消火栓や消火ホースの付け替えなどは、今は自治会が一部資金を出して早めにやってもらっていましたが、全額公費となれば役所がやってくれる順番も遅くなります。早くしたければその分の増税を受け入れればいいだけのことですが・・・。


 ヨーロッパの先進国は20%を越える消費税で(正確に言えばドイツは19%、他は20~25%)日本の1.65倍(ドイツ)から2.27倍(フランス)もの公務員を雇って公共サービスを維持しているのです。自治会が一部肩代わりしてくれる日本は、もともと安上がりに過ぎたのかもしれません。
 しかし今から2倍の消費税、1.5倍以上の公務員なんて、だれも受け入れたりはしないでしょう。おそらく自治会を潰した場合も大型の増税など不可能で、自治会が担っていた分のサービスがなくなるだけです。
 人々は「自治会など面倒くさくて時代遅れだ」といったその口で、「公共サービスが低下した」「税金ばかりが増えていく」と怒り続けるしかなくなります。
 
 学校も然り。
 PTAの補助で特別教室にエアコンを設置して問題となった学校もありましたが、もちろんそれは筋違いで公費で行うべきものだという考えはもっともですが、その主張が通ってPTAが一切金を出さなかったりPTAそのものを解散してしまったら、教委は代わりに特別教室にエアコンを入れてくれたでしょうか? 入れるにしても数年先の順番待ちか、他の必要機材と交換で入れてくれるにすぎません。
「私の払ったPTA会費が本来公費で行うべきエアコン設置に使われている」と怒ったその口で、「いつまでたってもエアコンが入らない」「エアコンは入ったが、サッカーゴールは壊れたまま」と言わなくてはいけないのは目に見えています。

【私たちが奴隷になっていくことへの憤り】

 ここまで書いてきて、私は自分自身の怒りのありどころがどこなのか、ようやくわかってきます。
 教職員労組組合がほとんどなきも同然になってしまったことも、PTAが次々と解散していきそうなことも、自治会からどんどん人がいなくなっていることも、イライラはしますが決定的なことではありません。
 問題は、
「昭和は組織優先で個を蔑ろにした時代。それに対して令和は個人を優先する時代」(最近のネット・ニュースに見た表現)
と言いながら、組織を解体して個人を切り離し、巨大な力に個で対峙する世界がつくられつつあることです。権力に対して個で立ち向かったらひとたまりもありません。奴隷にされるだけです。

 春闘を見てみればいいのです。組合組織のしっかりした大企業では賃金交渉も満額回答、あるいは希望を上回る回答が次々と出されているのに、組合のない企業は交渉もありませんからひたすら経営者の善意にすがるだけです。教員だって組合は実質的にありませんから、政府の恩情にすがって教員の働き方改革に良き政策が下ろされること祈っているだけです。戦う教師がいても、行政の最末端(校長)と局地戦を戦っているだけで、稀に勝つことはあっても数年経って校長が変われば、あっという間に元に戻ってしまいます。
 それもこれも、私たちが人生のハンドルを自分自身で握ることに執着しなかったためのことです。目の前の安逸を優先して汗を流すことを拒否したために、社会的人間としてのバワーを失ってしまったのです。
 私はそれが腹立たしいのです。
(この稿、終了)