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「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児の話」~高垣忠一郎氏を偲んで①

 臨床心理学者の高垣忠一郎の訃報が届いた。
 私はこの人から、
 子育てと教育に関する重要な二つの観点いただいた。
 ひとつは幼児教育の目標、そしてもうひとつは――
という話。(写真:フォトAC)

【訃報アリ】

 先週の金曜日1月12日の新聞に、小さな訃報記事がありました。
『高垣忠一郎氏(たかがき・ちゅういちろう=立命館大学教授・臨床心理学)3日午前7時、病気のため京都府京田辺市の自宅で死去、79歳。高知県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男陽平(ようへい)氏。
「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を提唱し、普及に努めた。著書に「生きることと自己肯定感」など。』
 私は高垣忠一郎と言う人がどの程度に有名で、臨床心理学の世界でどの程度に貢献した人なのかを知りません。しかしその隣の演歌歌手の冠二郎さんの訃報記事で、記事が1・2倍ほど長かったことを考えると、おおよその位置が予測されます。
 いうまでもなく、高知県出身の京都府民の死亡記事が私の件の地方紙に載るわけですから、それだけでも大きな存在なのでしょう。けれどそうした世間の評価とはかかわりなく、私個人にとっては、30年間の教員生活を含め、今日までずっと頼りにしてきた「子どもの成長と心理に関する最も重要な二つの観点」を与えてくれた人なのです。

【『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児】

 そのひとつは、幼児教育の目標と忍耐という問題です。高垣は著書「登校拒否・不登校を巡って」(青木書店 1991)の中でこんなふうに語っています。
 三歳児は他のだれにやってもらうのでもない。まさに「自分でする」ことになによりもこだわる。それが周囲の大人の「いけません」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じる。
  (略)
 しかし、まだこの段階では「自分で」に重点が置かれ、自分しか眼中にない。それはまだ「からの自由」であって「への自由」の達成ではない。社会的な秩序や要請に自らを合わせて行くことを学ばなければならない。
  (略)
 彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という「~ダケレドモ~スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆく。ほぼ4歳前後のことである。
  (略)
 そのことは、子どもの内面で自ら価値あるものを選択し、より高次の価値のためにより低次の価値を従属させるという営みが行われることである。
  (略)
 そこに人格の自立性の最初の獲得がある。
「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる誇り高き4歳児」の誕生である。

【幼児教育の目標と忍耐、そして親と教師の願い】

 私はこの美しい文章を何百遍となくなく口の中で唱え、自分自身の子育てや学校における生徒指導の礎としてきました。

「日本の親は子に我慢ばかりを強いる」
「日本の学校はいまも時代遅れの忍耐ばかりを教えようとする」
 そんな言われ方をされて久しいですが、日本の教育は徳川家康の遺訓のような、
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」
といった八方塞がりに慣れさせようとするものではありません。本人も気づいていないかもしれないのですが、親や教師を無意識に突き動かしているのはまさに高垣の言う
より高次の価値のためにより低次の価値を従属させるという営み
のできる子どもを育てたいという願いなのです。

 大抵の親は子に対して、ときに自らの欲望を押さえてひとに優しくできる子になってほしい、ここ一番というときには怠け心を克服して、精一杯頑張れる子であってほしい、自分のためでなく誰かのために役に立つ、そんな子に育ってほしいと願っています。社会には個人の欲望よりはるかに大切なものがあって、その絶対の前に私たちはひれ伏さなくてはならない――その第一歩は3歳から4歳にかけてのころ、遊びの中で覚えていくルール優先・法令順守です。
 私はそのことを、
「ジャンケンポン、カワリバンコにジュンバンコ」
と呼んでいます。この三つに関しては、3歳児といえど容赦してはいけないのです。

 教師たちは学校を子どもたちの学びの場、知識技能と人間関係と健康づくり(つまり知育・徳育・体育)を学ぶ場だと考えています。その学びを十全に行うためには、怠けたいとか、遊びたいとか、もっと面白いことをしていたいという欲望があってもそれを押さえて励んでもらわなくてはならないと、そんなふうにも思っています。
 ファッションにもポップスにもアニメにも価値があることは十分に承知しています。しかし学校はそうした若者文化を教える場でもなければ、鍛える場でもありません。古いのくだらないのと言われても、算数・数学の能力を高め、国語力を鍛え、人間関係を潤滑に行う術を身に着け、体の巧緻性や持久性を高めることこそ学校が行うべきことだと教師たちは信じて疑わないのです。だからときに子どもや社会とも対立します。世の中には子どもの自由が何よりも大切な人もいるからです。

【教師として、親としての私の立場】

 小学校や中学校で学ぶことは「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)を営む上で是非とも必要なことで、その意味では学校で学ぶことにこそ高次の価値があると私は思っています。正式に教育しなくても身につきやすい、流行に左右されやすい若者文化が学校教育とぶつかり合うようなら、少なくとも校内では、若者文化に引いてもらわなくてはならない――。
「髪を染めたいケレドモ」
「夜の繁華街で遊びたいケレドモ」
「バイクを乗り回して遠くまで行きたいケレドモ」
――今は学校で身につけなくてはならないことがたくさんあるから、我慢して勉強を頑張る、そういう子どもでいてほしいと、心より思うのです。

 ここで「髪を染めても勉強に身が入らないとは言えない」とか「夜の繁華街で遊んでも一流大学に進学する人はいる」といった不毛な議論をするつもりはありません。
 私は私がいま言いたいのは、教師としては自分の教えることに高い価値がると信じたからこそ生徒と真剣に対峙して高次の価値を守ろうとしたし、親としては子が常に
 内面で自ら価値あるものを選択し、より高次の価値のためにより低次の価値を従属させる
ことができるよう支援し続けたという事実です。
 私の二人の子には、何か買ってもらいたいものがあるとき、それがほんとうに欲しいものなのか、必要なものなのかは、いつも十分に考えさせるようにしてきました。
 ほんとうに重要なものは、目の前の欲望を越えたところにある、そう信じていたからです。
(この稿、続く)