クリムトの生涯は ウィーンの再開発とともにあった
ウィーンの興隆がモダニズムを支えた
そしてウィーンが終わるとき ウィーンモダンもクリムトも
エゴン・シーレも終わってしまった
というお話。
(グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」《左側》部分)
【グスタフ・クリムト】
ウィーンで空前の建設ラッシュが始まったころ、グスタフ・クリムトはその郊外に彫り師の子として生まれました。7人兄弟の第二子で、二人の弟もそれぞれ彫刻師、彫金師になっていますからいわば芸術一家、というより職人一家だったようです。
3人とも博物館付属の工芸学校に学び、そこで知り合ったフランツ・マッチュとともに学生時代から美術やデザインの請負仕事を始めます。まだ十代の後半に差し掛かったばかりのころです。
学校を卒業すると弟のエルンスト、友人のマッチュとともに芸術家紹商会をつくり、クリムトはさらに精力的に室内装飾の仕事に取り組みます。
24歳のころにはリング通り沿いに建てられたブルク劇場の装飾を任され、続いて美術史美術館、のちにウィーン大学講堂の天井画なども手掛けるようになります。
芸術家としての出発はかなり順風満帆で、クリムトは早くから名声を博し、31歳の若さでウィーン美術アカデミーの教授にも推薦されています(実際には就任しなかった)。しかしその前後から運命に狂いが出始めたようで、父と弟のエルンストをほとんど同時に失ったり、1894年に手掛けたウィーン大学の天井画は著しく評判が悪く、撤回せざるを得なくなったりしています。
1897年には自身も参加していた美術家組合とうまく行かなくなり、脱退して新しい組織を立ち上げます。
「ウィーン分離派」です。
【ウィーン分離派】
当時のウィーンは「音楽の都」としてはつとに有名でしたが、美術の方はさっぱり発展せず、フランスで興った印象派の影響もほとんど受けていませんでした。
印象派に大きな影響を与えたジャポニズムを決定的にしたのは、1873年のウィーン国際万国博覧会(*)だったにもかかわらず、です。
(*)ウィーン万博は明治政府がはじめて正式に参加した万国博覧会で、1300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居とその奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置したりしました。
シーボルトの紹介で日本政府にアドバイスすることになったG・ワグネルは、西欧の模倣でしかない日本の工業製品を展示することに何の意味もないと考え、日本的な美術工芸品を中心に出展することを勧めました。
そのため産業館には浮世絵や工芸品を展示し、そこに置かれた名古屋城の金しゃちほこや鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いたといいます。会場で販売された産品は飛ぶよう売れ、閉会後はイギリスの商社が日本庭園を丸ごと、木石まで買い取ってしまったそうです。
クリムトはそうしたジャポニズムの影響もしっかりと取り込んでいます。
今回、新美術館に展示されている「愛」(右図)では、上の両端に描かれた植物は、よく見れば薔薇ですがうっかりすると白梅にしか見えません。
一昨日紹介した東京都美術館に展示されている「ユデットI」は、クリムトが初めて金箔を使った作品ですが、これは尾形光琳の影響だと言われています。
ウィーン分離派は基本的に美術家組合に飽き足らない人々の集まりでしたので、雑多な才能がひしめいていました。そのことは必然的に分離派を絵画・彫刻・工芸・建築を合わせた総合芸術へと向かわせることになります。
計23回開かれた分離派展でまず注目されたのはポスターであり、やがて建築模型や家具、食器なども評判になります。
結成メンバーのひとり、ヨーゼフ・ホフマンはウィーン工房を立ち上げ、住宅・インテリア・家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品・本の装幀など、生活全般に関わる様々な分野でデザインを行いましたが、今回の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」にはそうした作品も数多く展示され私たちを楽しませてくれます。
クリムトはウィーン工房に強い関心を示しましたが、分離派の一部は美術の商業化だと激しく非難しました。
1905年、クリムトは自ら立ち上げたウィーン分離派を去り、以後は上流階級の女性の肖像画や風景画を数多く書いて過ごしました。
1918年、第一次世界大戦の終わった年に、クリムトは脳梗塞と肺炎によりウィーンで亡くなります。それは同時にハプスブルグ家のオーストリア帝国の終焉であり、チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴスラビア・ポーランドが次々と独立し、ウィーンの衰退も決定づけられたのです。
印象派に大きな影響を与えたジャポニズムを決定的にしたのは、1873年のウィーン国際万国博覧会(*)だったにもかかわらず、です。
(*)ウィーン万博は明治政府がはじめて正式に参加した万国博覧会で、1300坪ほどの敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居とその奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置したりしました。
シーボルトの紹介で日本政府にアドバイスすることになったG・ワグネルは、西欧の模倣でしかない日本の工業製品を展示することに何の意味もないと考え、日本的な美術工芸品を中心に出展することを勧めました。
そのため産業館には浮世絵や工芸品を展示し、そこに置かれた名古屋城の金しゃちほこや鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほどの東京谷中天王寺五重塔模型や直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描いた提灯などが人目を引いたといいます。会場で販売された産品は飛ぶよう売れ、閉会後はイギリスの商社が日本庭園を丸ごと、木石まで買い取ってしまったそうです。
クリムトはそうしたジャポニズムの影響もしっかりと取り込んでいます。
今回、新美術館に展示されている「愛」(右図)では、上の両端に描かれた植物は、よく見れば薔薇ですがうっかりすると白梅にしか見えません。
一昨日紹介した東京都美術館に展示されている「ユデットI」は、クリムトが初めて金箔を使った作品ですが、これは尾形光琳の影響だと言われています。
ウィーン分離派は基本的に美術家組合に飽き足らない人々の集まりでしたので、雑多な才能がひしめいていました。そのことは必然的に分離派を絵画・彫刻・工芸・建築を合わせた総合芸術へと向かわせることになります。
計23回開かれた分離派展でまず注目されたのはポスターであり、やがて建築模型や家具、食器なども評判になります。
結成メンバーのひとり、ヨーゼフ・ホフマンはウィーン工房を立ち上げ、住宅・インテリア・家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品・本の装幀など、生活全般に関わる様々な分野でデザインを行いましたが、今回の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」にはそうした作品も数多く展示され私たちを楽しませてくれます。
クリムトはウィーン工房に強い関心を示しましたが、分離派の一部は美術の商業化だと激しく非難しました。
1905年、クリムトは自ら立ち上げたウィーン分離派を去り、以後は上流階級の女性の肖像画や風景画を数多く書いて過ごしました。
1918年、第一次世界大戦の終わった年に、クリムトは脳梗塞と肺炎によりウィーンで亡くなります。それは同時にハプスブルグ家のオーストリア帝国の終焉であり、チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴスラビア・ポーランドが次々と独立し、ウィーンの衰退も決定づけられたのです。
【都市の盛衰と文化】
「ウィーン・モダン」と呼ばれる芸術上の一大潮流はウィーンの都市開発と密接な関係を持っていました。
ハプスブルグ家はマリア・テレジア以来の潤沢な資金をふんだんに都市に投下し、それが経済をフルに動かし、クリムトたちの芸術運動を下支えしたのです。経済的発展が文化と密接につながっていることを示す典型的な事例です。
ときおり、環境保護や社会福祉の観点から、
「もうこれ以上の経済発展は望まない。これからは人を守り、環境を守り、つつましく生きて行こうではないか」
そういった意見を聞くことがあります。
個人の生活としてはそれもいいでしょう。
しかし国全体として考えるとき、経済発展を止めてしまって果たして今の文化水準を守ることができるのか――そういう怖れが私にはあります。環境保護にも社会福祉にも、経済発展は欠かせないのではないかという経済半可通の恐怖です。
クリムトの弟子のエゴン・シーレの作品から、師の影響を感じ取るのはとても困難です。それは師が追い手に帆をかけて颯爽と生き抜いたのに対し、30歳も年下のシーレが、ヨーロッパが自信を失い迷い始めた時期に生きようとしていたからです。その絵画表現には憂いと迷いがあるといえます。
第二次大戦の終了とともにヨーロッパの覇権もオーストリア帝国も、ウィーン・モダンもクリムトもシーレも、すべて終わってしまった――。
国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」で、クリムトとシーレが同時に語られるのはそのためです。
ハプスブルグ家はマリア・テレジア以来の潤沢な資金をふんだんに都市に投下し、それが経済をフルに動かし、クリムトたちの芸術運動を下支えしたのです。経済的発展が文化と密接につながっていることを示す典型的な事例です。
ときおり、環境保護や社会福祉の観点から、
「もうこれ以上の経済発展は望まない。これからは人を守り、環境を守り、つつましく生きて行こうではないか」
そういった意見を聞くことがあります。
個人の生活としてはそれもいいでしょう。
しかし国全体として考えるとき、経済発展を止めてしまって果たして今の文化水準を守ることができるのか――そういう怖れが私にはあります。環境保護にも社会福祉にも、経済発展は欠かせないのではないかという経済半可通の恐怖です。
クリムトの弟子のエゴン・シーレの作品から、師の影響を感じ取るのはとても困難です。それは師が追い手に帆をかけて颯爽と生き抜いたのに対し、30歳も年下のシーレが、ヨーロッパが自信を失い迷い始めた時期に生きようとしていたからです。その絵画表現には憂いと迷いがあるといえます。
第二次大戦の終了とともにヨーロッパの覇権もオーストリア帝国も、ウィーン・モダンもクリムトもシーレも、すべて終わってしまった――。
国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」で、クリムトとシーレが同時に語られるのはそのためです。
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東京都美術館
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」
2019年4月23日(火)〜 7月10日(水)
《休室日 5月7日(火)、20日(月)、27日(月)、6月3日(月)、17日(月)、7月1日(月)》
開室時間 午前9時30分~午後5時30分
※金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)
国立新美術館
「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」
2019年4月24日(水)~8月5日(月)
毎週火曜日休館
開館時間 10:00~18:00
※毎週金・土曜日は、4・5・6月は20:00まで、7・8月は21:00まで
※5月25日(土)は「六本木アートナイト2019」開催にともない、22:00まで開館。
※入場は閉館の30分前まで