「国立新美術館のクリムト」~二つのクリムト展を観てきた 2

 国立新美術館の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」は
 クリムトが時代と社会からどういう要請を受けて生まれてきたかを提示する
 そこには悲劇の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が生み出した新生ウィーンの
 たくましく発展する姿が重なる 

というお話。

f:id:kite-cafe:20190516072319j:plainグスタフ・クリムトベートーヴェン・フリーズ」《右側》部分)

 

国立新美術館クリムト

 国立新美術館の、「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の何が良かったのか――。
 ひとことで言うとそれは、いかなる理由でクリムトが世に出てきたか、歴史と社会の中で芸術家はいかに育ってくるのか、その2点がとてもよく分かったからです
 
 

【ダ・ビンチとゴッホは違う】

 芸術と言えど時代や社会情勢から自由ではありません。それは当たり前で、私はよく言うのですが「その人はどうやって食っていたのか。その答えが芸術を規定する」のです。

 例えばレオナルド・ダ・ビンチの最初のパトロンメディチ家の「偉大な君主」と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチです。次がミラノ公国の君主のルドヴィーコスフォルツァ。最後はヴァチカンの教皇レオ10世でした。いずれも第一級の権力者、超お金持ちです。
 そうなるとダ・ビンチの絵は、どんなに大きくても小さくてもいい。彼の絵の飾られる教会や宮殿にはさまざまなサイズの部屋がありますから、どっちみち飾る場所に事欠かないのです。。
 注文主が焦れて怒らない限り、完成までに幾日かけても構わない。一枚の絵の代金で数年分の生活費が賄えますから気楽にやっていられます。
 ただし基本的に注文制作ですから好きなものを描いて買ってもらうという訳にはいきません。どうしても描きたいものがあれば、勝手に描いて自分で持っているだけです。有名な「モナ・リザ」はおそらくそうした作品です。死ぬまで側に置いて手を入れていましたから。

 しかしずっと後のゴッホとなるとそういうわけにはいきません。彼の絵は画商を通して小金持ちの邸宅に飾られることが予定されますから、自然とサイズは決まってきます。
 ダ・ビンチの絵の飾られる建物と比べるとずっと小さくなりますが、その分むしろ採光はいい。つまり明るい壁に掛けられる絵ということになります。コントラストを強めにして主人公を浮き立たせるといった工夫はいりません。
 モノクロとはいえ、すでにカメラのある時代です。本物そっくりに写すという点では写真にかないませんから、自然とフォルムは甘くなります。しかしそのことは芸術家をむしろ自由にしました。

 つまりダ・ビンチとゴッホでは、絵画の歴史的な発展以外に、まったく異なった表現を生み出すだけのたくさんの条件があったわけです。

 では、クリムトが世に出てきた歴史的・社会的条件とは何か――。
 国立新美術館の「日本・オーストリア外交樹立150周年記念ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の面白さはそこにあります。
 
 

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世】

 ウィーンに生まれウィーンに死んだグスタフ・クリムト1862年-1918年)の生きた時代は、ほぼオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に重なります。
 
 フランツ・ヨーゼフ1世(以下、ヨーゼフ1世)は、フランス2月革命のあおりを受けて起こったオーストリア3月革命の混乱の中で、わずか18歳で叔父から譲位され、86歳で亡くなるまで68年間も帝位にあった人です。

 3月革命でいったんは革命派に押し込まれたもののその後盛り返し、新絶対主義と称する新しい絶対主義を打ち立てて自由主義国民主義を抑圧しました。

 新絶対主義というのは、「民衆への政治的権利を譲渡しない代わりに、皇帝は万人のための近代的な経済・行政・教育システムを完全に保障しなければならない」と理論づけられるもので、一面で開明的ではありましたが、ヨーゼフ1世自身は王権神授説を頭から信じているような古い一面も持ち合わせていました。国民は大いに失望します。

 ただし即位後に繰り返された戦争では常に将兵の先頭に立ち、死を恐れなかったことからまず軍人の信頼を勝ち取り、続いて起きた自らの暗殺未遂事件によって民衆の同情を得ると、次第にオーストリア国民に受け入れられるようになり、やがては絶大な敬愛を受けて「国父」と称されるまでになり、その治世は安定します。

 彼の生涯は戦争には負け続け、聡明で将来を期待された長男には情死(心中自殺)され、国民的人気を誇った最愛の王妃も暗殺されるという不幸なもので、晩年、後継に指名したフランツ・フェルディナント大公は夫人とともに1914年6月サラエボで暗殺されてしまいます。これが「サラエボ事件」で第一次世界大戦の直接の契機となります。ヨーゼフ1世は84歳で宣戦布告の書類に署名し、その終結を待たずに亡くなりました。
 オーストリアハプスブルク帝国はその二年後、滅ぶことになります。
 
 

【リング通り】

 ヨーゼフ1世の生涯はまったくさえないように見えますが、首都ウィーンに限って言えばむしろハプスブルク家絶頂の感がありました。
 ウィーン市内の人口はすでに18世紀から増え続けていましたが、19世紀前半の50年間だけで倍増し、住まいを求める人たちは20万人にも膨れあがっていたのです。

 当時のヨーロッパの都市は大部分が周囲を壁で囲まれた城塞都市でしたが、ウィーンも例に漏れず、小さな枠の中に自身を押し込めていたのです。それが今や限界となりつつありました。

 またその頃、武器の大型化によって“城壁で都市を守る”ということ自体が意味をなさなくなっていて、ヨーゼフ1世はついに城壁の撤去を決意します。

 壁に沿って続く広い空き地は戦略的に重要なものでしたが、それも整備して全体を道路とします。期せずして巨大な環状道路ができたわけです。これをリング通り(リング・シュトラーゼ)と言います。

 そのリング通り両側に、ゴシック様式を模した市庁舎や新古典様式の帝国議会、美術館、博物館、教会などが次々と造られます。巨大な兵舎や国防省、警察の中枢――空前の建設ラッシュが始まり、装飾画家のクリムトが縦横無尽に仕事する場がこうして用意されるのです。

                (この稿、続く)