カイト・カフェ

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「貧乏人こそ結婚しろ、披露宴で脇を固めろ」~冠婚葬祭の経済学2

貧乏人同士は結婚した方が楽。(マイナス)×(マイナス)は(プラス)だ。
披露宴で支援者を募れ、
というお話。 

f:id:kite-cafe:20181218221817j:plainピーテル・ブリューゲル《父》 「農民の婚宴」)

  古くから伝わっている儀式とか組織とか風習にはそれなりの意味があります。
 問題はその意味が現在でも有効性を持っているかどうかということで、それを検証せずに捨ててしまうのは愚かなことです。

 結婚について言えば何の迷いもなく普通の式を行う人たちがいて、婚姻届けを出す以外は何もしない「ナシ婚」派の人たちがいて、式は挙げるが披露宴はしないという人も、あるいはそもそも結婚制度自体を否定する人もいます。これらが一緒くたにならないのは、「結婚式(挙式)」と「披露宴」と「結婚制度」とについてはそれぞれ別個の意味があって、それぞれ賛否あるからです。
 

【貧乏人こそ結婚すべき】

 結婚制度自体の是非については話が込み入りますから、別に機会があればその時に考えましょう。基本的には私の手に余る議題で、任にはないように思います。
 ただ「金がないから結婚できない」というのは本末転倒で、金がない者こそ結婚すべきだと私は思います。
 だって一緒に暮らせばテレビも冷蔵庫も洗濯機もひとつで済みます。キャベツだって一個丸々買ってきて使い切ることができます。電気やガスの料金もひとつ、ネット環境もひとつ――。
 私は50代はじめに3年ほど単身赴任をしましたが、別々に暮らすことの不経済にウンザリしました。

 貧乏人こそ結婚すべき――実際、昔の人が結婚した理由の大きなひとつは貧困でした。
「ひとり口は食えないが、ふたり口は食える」
というのはそれを言ったものです。
 貧乏な方、考えてください。
 

【省略しやすいのは挙式】

 挙式については、人々がまだ“神”を信じていた時代には大きな意味がありましたが、現在は微妙です。神父や牧師に会うのは結婚式が初めてという人だって少なくないからです。私もその一人でした。

 ただ、式を通して“襟を正す”とか“けじめをつける”といったことに意味を見出す人は少なくありませんし、人生に区切りをつけるために必要だという考え方も理解できます。
 私自身は式の最中に神父が聖書から引用した言葉、
「神が合わせたものを、人が離してはいけません」(マタイによる福音書第19章)
はとても新鮮で、以後30年以上も大切にしてきました。

 日ごろキリスト教など信じていないのにその日限りのにわか信者でいいのかという考え方もあります。しかし生まれた時にお宮参りをして結婚式は教会でやり、葬式の方はお寺さんにお願いするという多くの日本人のやり方は、一種の汎神論ですから唾棄するほどのこともありません。

 神の前で誓ってけじめをつけることが大切だと思う人はやればいいし、どうでもいいと思う人はしなくてもいいかもしれません。同じく“どうでもいいんだから”親の顔を立ててやってやろうという考え方もあります。

 しかし披露宴は違います。

【披露宴で披露するもの】

 披露宴というのは読んで字のごとく「結婚した事実、結婚した二人を披露する宴(うたげ)」です。
 披露する意味はたくさんあって、思いつくままに挙げると、
「両家は婚姻によって結びつきをもったから、一方に対する扱いは他方に対するものである(あちらの家が攻められたら加勢するぞ!)。よろしく」
「何かトラブルがあった時は両家で共同責任を取ります」
「この二人は公的に結びついたのだから、横合いから手を出してはいけません」
「この二人で新しい家族を形成しますから、さまざまな場面で支えてください」
「私たち親だけでは目配りが足りなくなるかもしれませんから、よく見てやってください」
「困ったときには何か頼みに行くかもしれませんが、それもよろしく」
といったことです。

 端的に言えば婚姻によって結びついた1組の男女、ふたつの家を認知してもらうとともに、地域のセイフティーネット加えてくださいとお願いするのが披露宴の本来の意味です。
 ですから式の最期に両家代表として新郎の父親が、
「まだまだ至らぬところばかりのふたりでございます。勝手なお願いではございますが、どうかこれからも温かく見守り、叱咤激励いただけると幸いです。」
と挨拶するのは、まことに当を得たものなのです。

 ここに課題があります。
 現在のように社会福祉が発達して、失業したり破産したり、あるいは病気をしたり年老いたりしても国が何とかしてくれる時代に、一族郎党・隣近所、恩師・上司・取引先、先輩・同輩・後輩・友人、そういった各位に、セイフティーネットの提供を依頼する必要があるのか、ということです。
 大丈夫だ、私的なセーフティネットはいらない、となれば披露宴を行う意味は半減します。

 しかしサブシステムとして確保しておきたいとなったら、頑張って行っておく方がいいでしょう。

【新たに縁を結ぶ】

 私はかつて参会者250人を越える大きな結婚披露宴に出たことがあります。
 宴会の最中に新郎に近づくと、
「オレ、この中で知っている人、20人もいない」
となんだか不機嫌でした。親のための披露宴、といった想いだったのでしょうか。
 しかしいま思うと、230人もの新しい知己ができたということは悪いことではありません。

 250人の中には医者も弁護士も警察官もいて――いやいなくてもそうした職業に近い人がいて、何かの折には役に立つかもしれません。困ったとき、その筋の専門家が披露宴にいたことを思い出せば電話一本で用が足りることもあります。披露宴に招いたという実績があれば会いに行くのも楽です。

 しかし披露宴をきちんと行うことの一番の価値はそこではなく、おそらく新郎新婦の覚悟のほどを見せる、ということだと思うのです。
 明日はそのことを考えます。

(この稿、続く)