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「式はどこから来たのか、結婚式とは何か、式はどこへ行くのか」~息子アキュラの結婚式で考えたこと③

 息子の結婚式の招待状を息子からもらう――。
 本来は親が主催者なのだからありえないことだ。
 結婚式から神主も牧師もいなくなり、披露宴からは上司・同僚が消える。
 そのくせ残る昔ながらの余興や挨拶――不思議で難しい世界だ。
 という話。
(写真:アキュラ提供)

【息子夫婦の結婚式に招待される】

 息子のアキュラは合理主義者で、ダメだと分かると人に任せるのも早いが、自分でやると決めたらそれも頑固だという話はしました。子どものころから実力もないくせに独立心は強く、親に相談すれば何か言われる、金を出させれば口も出されると思い知っているのか、大切なことは何も言わないし、金については潔い子でした。
 今回の結婚式・披露宴についても、
サーヤ(新婦)と話して、お金のことでは親の世話にならないことにした」
とかで、その後ときどき報告や依頼はあるものの、相談というものはほとんどなく当日まで来てしまいました。

 確かに「金を出させない代わりに口も出させない」というのは筋の通ったやり方で、すでに30歳近い年齢で、短いながらも社会人経験のある人間に、たとえ息子といえど一銭も出さない人間があれこれ注文をつけるのは気の引けるところです。話の途中で「サーヤもボクも、会社関係の人は呼ばないつもり」と言われ、多少の抵抗はあったもののやり過ごしてしまったのも、そうした事情があってのことです。子どもたちに任せておけばいい、任せておくしかない――。

 ところがその気持ちが揺らぎます。何があったのかというと式の3カ月ほど前に届いた招待状の差出人が、私たち親ではなく新郎新婦本人だったからです。

【この結婚式、どうなるのだ?】

 何をその程度のことで、と思う人もいるかもしれませんが、古い人間にとってはけっこう重要な問題です。
 昔の結婚式は両家の親の名前で招待状が出され、文例としては次のようになるのが一般的でした。

謹啓 新緑の候 皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます
このたび
中村一郎 長男 太郎 と 
鈴木和男 次女 花子との
婚約相整いまして 結婚式を挙げる運びとなりました

つきましては 幾久しくご懇情を賜りたく 
披露かたがた小宴を催したく存じます

ご多用中 誠に恐縮ではございますが ご来臨の栄を賜りたく 
謹んでご案内申し上げます  
  敬白

 これがまさに昨日申し上げた、結婚式・披露宴を、
コミュニティにおける「独立した家庭を営むことになった男子の立志・お披露目式」であると同時に「新たに迎え入れることになったセーフティネット構成員女子の紹介・歓迎式」
と考える人たちが思い浮かべる結婚式の印象です。
 親が主催し、親が責任をもって新しい家族の誕生を宣言・披露し、参列者による受容と確認、そして指導・鞭撻を依頼するわけです。

 大したものではないとはいえ、こうした昔からの定型があるにもかかわらず、敢えて招待状の送り主を新郎新婦するというのは、
「今回の結婚式は私たち二人が人生をともにすることを披露する式であって、家と家とを結びつけるものではありません。」
と宣言して大人を蹴飛ばすやり方ではないかと、古い人間は懸念します。

 扱いとしては親も招待者のひとりに過ぎず、父親がファミリーのドンとして遇されるわけでも、母親が産み育ててくれた人として感謝されるわけでもない。ただの関係者、友だちと一緒に祝ってほしい人。したがって他の招待客と同じく、ご祝儀ももっていかなくてはいけない立場です。
 ミミッチイことを言えば、本来は私の懐に入るはずのご祝儀が、全部アキュラに持っていかれてしまう。例えば私の義兄が持ってくるはずの高額の祝儀は、かつて私が同額の祝儀を甥や姪の結婚式に持って行ったことで保障されているものです。それが全部息子に取られてしまう。(*)
*もっとも結婚式の費用は当日招待者から受け取る祝儀を大きく上回るのが普通で、損得だけで言えば子どもに払わせた方が圧倒的に得ではあります。

【やがて結婚式から親戚も消える】

 種明かしをしてしまうと、実はアキュラにもサーヤにも、私たちを単なる招待客にしてしまう心づもりはまったくなかったのです。自分たちの資金だけでやりたいというのは、アキュラにとっては《自由にやりたい》、サーヤにとっては《親に迷惑はかけたくない》という性質のものでしたし、招待状が本人たちの名前で出たのも、現代の常識に従ってやっただけのようです。ネットなどで招待状の文例を調べると本人名義のものが圧倒的で、親名前のものが例外的になっています。
 もはや時代は変わったのです。

 家と家を結び付けるという意識は急速に衰え、招待者の顔ぶれも変わってきます。十数年前、親戚と友だちしかいない甥っ子の結婚式に強い違和感を持った私も、現代のやり方に慣れなくてはなりません。
 アキュラとサーヤはともに理系で、勤め始めると同時に転職のために腰が浮いているような人種です。優秀なら必ず外から声がかかるはず、転職できないのは恥くらいに思っているのかもしれません。そんな彼らが勤務先の上司やら仲間やらを大勢呼んで、妙なしがらみをつくって絡め取られるのはむしろ愚策というものでしょう。

 甥っ子は時代の先取りをしただけで、結婚式・披露宴から「ご近所」に続いて「職場」が消えていくのは必定だったのです。コロナ禍も職場内の人間関係を薄めるのに十分な力があったのかもしれません。
 次に消えるのは「親戚」。少子化で親が一人っ子同士だと、今でも伯父も伯母もいとこも来てくれません。時代が移っていくのです。

【しかし古いものも一部に残る複雑】

 アキュラもサーヤも特別なことをしたかったわけではないのですが、主催者は自分たち、職場の上司も友人も呼ばない、式の形式は「人前」とか言われると、私たち旧世代はスキルを生かせずに戸惑います。とりあえず何を着て行ったらいいのかも分からない――。

 相変わらず「相談」はないものの、今年になってからはアキュラから次々と「依頼」が入ります。
「父親はモーニングコート、母親は留袖で両親の服装は揃えたい」(当り前じゃないか)
「親のご祝儀はいりません」(当然ダロ)
「最後の『両家代表の挨拶』は父にお願いしたい」(え? やっぱりやるんかい?)
 いずれも昔のままだったらいちいち気を遣ったり連絡したりしなくて済む話ばかりです。「両家代表挨拶」などは招待状をもらって以降「結婚式における両家」という概念を失っていた私を、面食らわせるものでもありました。
「ファースト・バイト」の「あ~ん」や新郎新婦から両親へのお礼お言葉など、昭和から変わっていなところもたくさんあったのです。

 私の内心の声は言います。
《結婚式なんてどうでもいいものなんだから、昔通りやっていればいいじゃないの!》
(この稿、続く)