カイト・カフェ

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「一流とはすごいものだと思った話」〜古い映画を観た

【年寄は急ぐ】

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 最近、とみにできなくなったことのひとつは本を読むことです。特に小説が読めない。

気持ちが急いて「行間を読む」とか「イメージを膨らますとか」、小説を読むときは自然にやっていることが面倒くさくて仕方ないのです。早く結果が欲しい、読んだら読んだ分の変化や知識が欲しい、そう考えるといきおい読書は実用本だとか解説書だとか、よくても批評・論説文止まりです。最近はさらにせわしくなって、文字を読むのはほとんどがネットです。
 きちんとした確かな知識を得てもそれを十分に生かすだけの時間的余裕が残っていいない、いちいち深くまで知る必要もない、となればなんでもかんでもWikipedia頼みということになりかねません。

 テレビも連続ドラマというのが見られなくなりました。翌週まで待つのが耐えられないのです。そこでVTRに取りためて一気に見るということになるのですが、今度はそのための一日3時間・4時間が惜しくなる。
 妻はとんでもない“ながら族”で、推理ドラマでも別の仕事をしていて入り口(事件の発端)も出口(事件の解決)も見落としてそれで平気、という人ですからいくらでも消化できるのですが、私はそういうわけにはいきません。結局、母との会話のための「西郷どん」、妻との意思疎通のための「半分、青い」、この二本を除いてドラマ全部を諦めることになりました。したがって現在継続的に見ているのはニュース、報道特集、少々のワイドショウ、そしてたまのお笑い番組ということになっています。
 しかしそれでいいのか。

 あまりにも無教養な生活を反省し映画くらいは見た方がいいと思い定めて、そこで選んだのが「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年イタリア)です。

【敷居の高い映画】

 なぜそれにしたのかというととにかくサウンドトラック(←今でもこの言葉を使うのかな?)が素晴らしく、あちこちで聞くのでずっと前から気になっていたのです。しかも題名がいい。昔の名作が次々と出てきそうな感じです。ミュージカルとかドタバタ喜劇とか(実際に出てきました)。
 けれど一方でこうも思います。
「何といってもイタリア映画じゃないか」

 古くは「自転車泥棒」から始まって「刑事」だの「鉄道員」だの、あるいは「ブーべの恋人」だの「太陽がいっぱい」だの、もうイタリア映画は絶対にいいなんて分かり切っているのですが、いざ観るとなると腰が重い。
 小難しい、暗い、何か考えたり見つめたりしなくてはならない場合がある、見終わった後で必ずしも清々しい気持ちになるとは限らない――。
 大人になってからは「ジョーズ」だの「ブレード・ランナー」だの「マトリックス」だの、あるいは「ランボー」だの「ミッション・インポシブル」だの「トランス・フォーマー」だの、そんなアメリカンシネマばかり観てきた私には荷が重く、なかなか手が伸びなかったのです。

 しかし勉強です。
 幸い私はアマゾン・プライムの会員で、無料で観られる映画の中に「ニュー・シネマ・パラダイス」もあるのです。
 ただで観られる――それもこの映画に決めたもうひとつの理由です。

【「ニュー・シネマ・パラダイス」】予告編

 感想を結論から言うと、「やはりよかった」です。

 題名の「ニュー・シネマ・パラダイス」はシシリー島にある架空の映画館の名前でした。そこに通い詰める映画大好き少年の成長を描くとともに、映画をこよなく愛する街の人々を描き、悲劇があり、喜劇があり、大恋愛があり、そして別れがありと、人々の人生を映画館の盛衰とともに描く体裁になっています。
 さまざまに事件はありますが、だからといって決定的な何かが起こるわけではありません。私たちの人生がそうであるように大事だと思ったことが振り返ってみると結局大したことなく、怒りも愛も哀しみも、時間とともに溶けていく。
 映画の最初から、“ああ大したことは最後まで起こらないな”と分かるのですが、それは「自転車泥棒」で“盗まれた自転車は最後まで見つからないだろうな”と思うのと同じです。淡々と物語は進み、それでいて飽きずにいられるのです。最後の場面では不覚にも涙を流しそうになりました。
 その最後がどんなに悲しい場面かというと実はそれほどでもなく、主人公は画面の中で笑い転げていたりします。それがまた哀しい・・・って、何のことかわかりませんよね?

【さまざまな一流】

 一流というのはほんとうにすごいことです。
 よく「ひとことで説明できるなら映画なんか作らない」といった言い方がありますがますが、「ニュー・シネマ・パラダイス」はひとことで説明しようとするとまったくつまらないものになってしまうのです。
 どうやってもうまく説明できない、実際に映画で観なければ分からない、淡々と時の流れる、しかし感動の名作なのです。


 同じことは小説にも絵画にも音楽にも言えます。一流と名のつくものはすべて特別のものをもっています。

 ビアトリクス・ポターは絵本の中に子どもにしか分からない世界をつくって直接子どもに呼びかけます。
 東野圭吾の「秘密」は事故にあった母娘のうち母親の方が亡くなり、生き残った娘の体の中に母が出現する物語です。父親とは外見上親子なのですが内面は夫婦という難しい関係で、その関係を軸に物語は進んでいきます。外見と中身に齟齬があるというだけで、具体的には普通の家庭に普通に起こりそうなことしか起こらない、結末も大雑把に見えている、それでいてグイグイと最後まで読ませるのです。長編なのに。

 話を少しだけ映画に戻しますが、「ニュー・シネマ・パラダイス」を観た後、ちょっとした事情があって邦画の「百円の恋」も観ました。
 日本版・女性版「ロッキー」みたいで物語で中身はさほど感心しなかったのです。びっくりしたのは主演の安藤さくらさんです。
 最初の方で「ドテッと太った引きこもりのアラサー女」だった主人公が、途中からボクシングに興味をもってジムに通うようになり、強引にプロテストを受けた上に幸運にも試合に出られるようになる――そうした物語の過程で、本物のプロボクサー並みに体が絞られていくのです。
 ジムでの練習だとか路上での走り込みだとか、さまざまにボクシングを場面があるのですが、ステップがまるで本物で、サンドバッグやスピードバッグを扱う様子もハンパではありません。一流の女優というのはとんでもないものだと改めて思いました。
 そう言えば「西郷どん」の鈴木亮平さんも、役に合わせて激しく体重を変化させる人です。

 一流でなくとも、プロなら一般人にできないことをしなくてはなりません。プロがプロらしい仕事をしてくれなければ顧客である私たちは大損です。

【プロ教師】

 教員になりたてのころ先輩から、
「Tさんは生徒ときちんと対決していない」
「なぜ子どもに言うことをきかせられないのだ」
「生徒のやることを、教師があとから追いかけて行ってどうするんだ」
とさまざまに叱責されることがありました。
 生徒と十分対決できていないことも、しばしば逃げていることも十分承知していました。しかし対決するということがどういうことなのか、言うことをきかせるにはどうしたらいいのか、あるいは生徒に先んじてどんな手を打ったらいいのか、私はまるで分っていなかったのです。

「保護者から相談されたときに一緒に悩んでいてどうする? 友だちじゃあねえんだろうがァ!」
 返す言葉がありませんでした。

 ですからいつの日か、何かあったときはそれがどんなことであれ、対応策の一つか二つかがすぐに浮かんですぐに動けるようになる、それが若い頃の私の目標でした。必ずしも有効なものでなくても何か浮かぶだけでも良かったのです。
 まがりなりにもそれができてるようになるのに、やはり10年近い時間がかかりました。プロとはどんな場合にも大変なものです。