カイト・カフェ

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「ともに考える」〜ブラック校則をなくせ 4

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 もういい加減にしてくれよ。
 オレたちは茶髪だとかパーマだとか、女の子の下着指導がしたくて教師になったわけじゃない。  数式の美しさだとか化学変化の不思議、日本語の魅力だとか歴史の面白さとかを教えたくて教師になった。自分の思いを英語で伝えたり音楽で伝えたり、絵が描けたり家の中のものが簡単に直せたり作れたり――そういうことを教えたくて教師になったのに、今やっていることは何なんだ!

 なあ、頼むからつまらないことはやめてくれよ。
 イキがってトサカみたいな髪をしたり唇を真っ赤に塗ったり、それが何だというんだ。そんなことは自分の部屋でやればいいことで、学校になんか持ち込まないでくれ。

 頼むから勉強してくれ、黙って座ってオレたちの話に耳を傾けてくれ。退屈な時もあるかもしれんが、じっと聞いていればオレたちだってけっこういい話をしているんだ。だってそのほとんどはオレたちが発見したものでもつくりあげたものもでもなく、偉大な先達たちがもたらした素晴らしい財産だからだ。つまらないはずがない。

 宿題をやってこい、向上心をもって学べ。半歩でも前へ進めるよう努力しろ!

 先生たち頭の中を覗くと、そんな言葉が渦巻いているのかもしれません。  昨日引用した新聞記事(2017.08.21「地毛証明書」「無言給食」 学校のルールを考える)にも、校則について、
「くだらない」
「いまだにこんなことやっているなんて、信じられない」
「これは教師の仕事なのかな。ほかにやるべき仕事があると思う」
といった表現がありましたが、それは教師もまったく同じ考えです。
 先生たちがほんとうにやりたいのはそんなアホな指導ではなく、授業であり、教育なのです。

 ブラック校則をなくすヒントがここにあります。
 先生たちだっていやなのです。

 校則がなくても、指導がなくても、生徒が勉強に前向きな努力を続ける学校であれば、教師は喜んで授業に邁進します。誰も校則なんかに汲々としたりしません。

【誰が校則問題の主体なのか】

 この記事の発端となって再三引用している2017.12.17付け毎日新聞『茶色の髪問題契機「ブラック校則なくそう」運動スタート』)に、とても気になる一文がありました。
 不合理な校則やルールについて全国的なアンケート調査で実態を把握し、全国の学校に見直しを求める活動を展開する。

 全国の学校に見直しを求める活動?

「昔の常識でつくられた校則が子どもたちを苦しめている。新しい時代の校則はどういうものか、社会全体で議論したい」(上記新聞記事より)
と言うにはあまりにも古い考え方で驚きます。“校則は学校が下し置くもの”だから学校に見直しを求めるというのは昭和の考え方でしょ。
 尾木直樹先生あたりはかなり昔から繰り返し「校則は生徒参加で決めるべき、学校が一方的に押し付けるものではない」オギ💛ブロ 尾木ママ オフィシャルブログ)と訴えています。

 もっとも「校則は生徒参加で決めるべき」といっても、私は理念としては賛成できますが、現実問題として難しいと思います。なぜなら中学校も高校も毎年三分の一ずつ生徒が変わってしまうからです。
 校則を学校と生徒の契約のように考えると、毎年新入生のあるたびに更新しなければならない理屈になりますが、全校生徒の意見を吸い上げ、整理し、討論して議決するという遠大な作業が、果たして四月五月といった忙しい時期に可能かどうか?
 また、特に入学したばかりの生徒に、校則各条項の具体的な意味を理解しろといったところでそれも可能なのかどうか、はなはだ疑問です。

【ブラック校則をなくす決め手】

 ほんとうの決め手は、それが対象とするような事象そのものをなくしてしまうことです。生徒の力でそれを達成するのが一番望ましい。

 髪を染めたり化粧したりする子をなくす、派手な下着を誇示するように着てくる子をなくす、自転車を学校周辺に放置する生徒をなくす、ジュースやコーラの缶やペットボトルをポイ捨てする生徒をなくす――そうしさえすれば馬鹿げた校則の一部はわざわざ削減しなくても宙に浮きます。
 あってもなくてもいいような校則は誰も気にならないでしょう。しかし生徒だけで、あるいはNPOの力を借りても、学校の浄化運動というのはそう簡単にできることではありません。

 では何ができるのか?

【校則の意味をともに考える】

 私は、子どもたちとともに、みんなで一緒に不可思議な校則について考えていったらどうかと思うのです。その点でキッズドアと考えをひとつにします。  子どもたちが首を傾げるような校則は「昔の常識でつくられた」からかどうかも疑問の余地がありますし、「昔の常識」は現代に通用しないかどうかも議論しなくてはなりません。
 さらにその「昔の常識でつくられた校則」で苦しめられている子がどんな子なのか、多数派なのか少数派なのか、少数派でも救わなくてはならない子たちなのかそうでもないのか。苦しむ子がいるからなくしましょうでいい話なのか、苦しむ子がいてもあえて残さなければならないものかどうか――、それらすべてが話し合いのテーブルに乗せるべき主題です。

 一昨日書いたように、私はすべての校則には理由(わけ)があると思っています。しかしその理由(わけ)は、すぐに理解できて納得できるものである場合もあれば、そもそもなぜそうなったのか先生たちですらわからなくなっている場合もあります。例えば「カーディガン禁止」などがそれです。
 そして「カーディガン」がそうであるように、広く意見を求めれば必ず禁止条項成立時の事情を知っている人も現れてきます。

【どこでだれがやるか】

 さきほども申し上げた通り学校のカリキュラムはもう限界で、校則について何時間も話し合っている時間などどこにもありません。したがって深い話し合いをしようと思ったら、議論の場は校外に求めるしかありません。キッズドアのような組織が手を挙げてくれたことは非常にありがたいことです。

 そして全国の学校に見直しを求めると言ったシラミ潰しよりたいへんな活動に手を取られるのではなく(だって中学校だけでも全国に1万校もあるんですよ)、現在ある校則についていったん肯定的に意味を問いなおし(どうしてこの校則はできたのだろう、なぜ必要だったのだろう)、それを基礎に、新たな校則の在り方を全国に提案していけばいいと思うのです。

 それは言わば「校則の憲法というべきものであって、その憲法とともに具体的な「校則案」を提示できれば、全国1万校の中学校と5千校の高校・中等教育学校・特別支援校の参考になると思うのです。もちろん小学校だってかまいません。

 一方、私は学校の先生たちも、校則が説明できるように日頃から情報を集め、頭を鍛え、「ああ訊けばこう答える」ことのできる教師になっておく必要があると思うのです。その場しのぎの中途半端な答えが、子どもの不信感を高めている側面は確かにあります。
 このブログで先生たちに何かを求めることは滅多にありませんが、今はそのよう思います。
*注
 ここまで書いてきて思うのですが、そんなふうにあれこれいじくりまわしても結局、文言が現在よりもずっと洗練された適確で分かりやすいものになるだけで、現在の校則と大差ないるのではないかと思っています。それくらい校則には必然性があります。
 さらにひとつ、
 児童生徒に校則や決まりを任せる時、注意しなければならないのは「骨抜きにされる」ことではなく、異常に厳しいものがつくられてしまう危険です。  私たちは、彼らが「正義の人」たちであることを忘れてはいけません。
 
                           (この稿、終了)