カイト・カフェ

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「アルチンボルドの不快」〜障害者をもてあそぶ世界

 9月17日(日)、台風の近づく雨の中、国立西洋美術館の「アルチンボルド展」に行ってきました。

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 それまでアルチンボルドについてはほとんど興味がなく、展覧会のポスターを見ても「ああ、こういう絵を描く人いたな」程度の知識しかなかったのですが、たまたま東京に行く用事があり、展覧会自体もあと一週間で終了ということなので思い切って出かけたのです。行って損な展覧会というものもそうはありません。

アルチンボルド

 ジュゼッペ・アルチンボルド(1526年―1593年)はイタリア・ミラノ出身の宮廷画家で、多く宗教画や室内装飾を手掛けた人ですがそのほとんどは忘れ去られ、主に精密画のように丁寧に描かれた果物や野菜、食材、動植物の集合体として描く肖像画で名を残しています。

 今回の展覧会はアルチンボルドの代表作《四季》(春・夏・秋・冬)および《四大元素》(水・火・大地・大気)の8作品を中心として、その他の油絵・素描30点余り、さらに同時代の画家や彫刻家の作品100点余りを配して時代を重層的に表現しようとするものでした。

 あと一週間、三連休の中日、雨で屋外のイベントには参加しにくい、ということでそうとう警戒して行ったのですが、会場は思ったほどは混んでおらず、ただ入場口前の「自分の顔をアルチンボルド風にして写真が撮れるCGコーナー」みたいなところだけが大盛況でした。
 私も少し興味あったのですが、40分待って“この顔に野菜や果物の盛り付けられた写真”を撮って帰ってもだれも喜んでくれそうにないので早々に諦め、さっさと会場に入りました。

【「法律家」の重苦しい衝撃】

 代表作《四季》《四大元素》については「フム、フム、フム」程度の感想しかなかったのですが、「法律家」と題された一枚の前では強い衝撃を受けました。それは重く暗い静かな衝撃です。

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 スイミング・キャップのようなぴったりした黒い帽子を被った老人の顔は、羽をむしった鶏やヒナ・魚などによって構成され、胸や胴は書類や本で作られている、その意味では他と同工異曲のアルチンボルドらしい作品なのですが、それを鑑賞しながらヘッドフォンの音声ガイドに聞き入る私の耳に入ってきた情報は、一気に気持ちを暗くするものでした。

 それによると、“驚くほど本人に似ている”と皇帝や宮廷の人々から誉めそやされたこの作品のモデルは、当時ウィーン宮廷の財政を取り仕切っていたヨハン・ウルリッヒ・ツァシウスという法学者で、彼は生まれつき顔にコブがあるうえ事故によってできた大きな傷もあったというのです。
 もともと障害のある顔を裸の鶏や魚によって表現し、あからさまに馬鹿にしながら欠点をあげつらって皆で喜ぶ――。

【多毛のアッリーゴ、狂ったピエトロと小さなアモン】

 さらに進むと、今度は《多毛のアッリーゴ、狂ったピエトロと小さなアモン》という作品に出会います。

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 これは当時、ウィーン宮廷に“収集品”として集められた障害者を描いたもので、多毛症のアッリーゴ(エンリコ・ゴンザレス)と小人症のアモン、右端のピエトロは精神障害なのでしょうか、彼らは足元にいるサルやイヌ、インコと同じ扱いで宮廷に集められ、貴族の家々を巡回させられた人々なのです。
 アッリーゴの家族については会場の別の場所でも紹介があって、カナリア諸島から連れてこられた多毛症のペドロ・ゴンザレスという男がウィーンで結婚し、生まれた子どものひとりがアッリーゴらしいのです。子どもたちは全員、父親の形質を継いでいたようです。

【今の時代を大切にしなくてはいけない】

 顔に障害のある老人を茶化したり、多毛症や小人症の人々を一か所の集めて鳥獣と一緒に描く――それ必ずしもアルチンボルドの好みではなかったのかもしれません。恐らくそうでしょう。
 彼はたぶん芸術家というよりは絵画職人で、それも施主の注文に非常によく応える優秀な職人であったはずです(ただしもちろん、悪趣味に抵抗せず積極的に加担したという罪はありますが)。
 果物や花でつくる肖像画とか逆さ絵(逆さにすると違うものが見えてくるだまし絵)とか、あるいは障害者というもの好んで弄ぶ風は、画家が使えたフェルディナント1世を始めとする三代の皇帝のもので、同時にそれは16世紀オーストリア宮廷の、何の屈託もない、当たり前の雰囲気だったのでしょう。
 やりきれない、ウンザリとする風景です。

 私は学校現場にいるとき、過度の人権尊重(子どもに小指の先ほどの苦労もさせてはいけない、そのうえで確かな学力をつけろといった類のこと)にウンザリすることがしばしばありました。
 しかしそれでもなお、人権の尊重される世界を守り維持しなければならないと思うのは、こうした事物に出会うときです。