「今の日本の教師のレベルで教えてもなあ・・・」
これに対する基本的な反論は、
「だったらいつの日本、あるいはどこの国・地域に『今の日本』を越える教師がいるのか、具体的に示せ」
です。
少なくとも私が教育を受けてきた昭和の教員たちは「今」に比べたらロクなものではありませんでした。私は確信をもってそう言えます。
彼らはしばしば二日酔いで臭い息を吐きながら教室に現われました。それどころか自習を指示して教室の隅で寝てしまった教師もいます。
理科室などは時にクサヤの臭いが立ち込め、前夜の酒盛りの様子がうかがえます(というのは理科室にはガスが入っていたからです)。
そういえばストーブの前に椅子を置いて座り、生徒に教科書を読ませている間に眠ってしまった教師もいました。私たちはクスクスと笑って起こしてしまいましたが、相手が高齢な方だったこともあって怒る生徒もいませんでした。
空き時間はいつも自分の作品作りに一生懸命な美術科の教師もいました。勤務中だというのにこの体たらくです。しかし当時の私たちは不思議にも思いませんで[した。
夜中になると酔った勢いで母子家庭の母親に電話をかけ先生もいました。一番困るのは生徒であるその家の子がそれを知っていた点です。今では考えられない事です。
しかし何よりも今と違っているのは、教師の暴力が平然とまかり通っていた事です。私はどちらかというと「良い子」の部類でしたが、一週間に一度も殴られることなく過ごすのはまれでした。何しろドリルテストで8点未満だと殴られる始末ですか「良い子」だけではだめなのです。
私は体罰容認論者ではありませんし体罰が子どもを育てるとも思いません。しかし体罰はほかの子に対する抑止力になります。殴られた子より殴られなかった子により効くのです。
殴られる子を見て「あんな目には会いたくない」と思うから、先生の話はよく聞きました。すると先生という人たちはけっこうためになる話をしているのです。中にはくだらない話を延々とする人もいましたが、たいていは“いい話”でした。そこから学ぶことも多かったのです。
しかし現代の先生たちは言葉だけで子どもを静かにさせ。体罰も精神罰もなく、“諭す”という話法だけで子どもたちを動かそうとする。それだけでも平成の教師の偉大さがわかります。
もしかしたら“識者”たちの考える“昔の教師”は大正・明治までさかのぼるのかもしれません。そこまで行くと私にもわかりませんが、“今の教師”が明治・大正の教師に比べると圧倒的に劣ると考えることは、20世紀の教育技術・教育理論を全面的に否定することになります。
百年の間に科学技術や文化は圧倒的に進歩したのに教育だけが退化したと考えるのは尋常ではありません。
ただし明治大正期、小学校長の給与は警察署長とともに村長と一緒だったといいますから、教員給与も半端ではなかったのかもしれません。
その分、昔の学校の方が優秀なメンバーを集めやすかったということであれば、少しは賛同してもいいような気もします。