「体罰の問題」④〜事態の昇華、ステージ・アップ

 

 あるとき、中学校の三年になってから、無着先生が私たち全員をゲンコもちでぶんなぐったことがあります。みんな目をつむらせられて、ゴツンゴツンくらつけられました。みんなも、自分がぶんなぐられていたかったのも忘れて、「先生にぶんなぐられるようなことをしたのはだれだ!」「いつもいつも人をなぐったり、人の生命にきずがつくようなことをするのはわるいことだ、と教えている先生に、ぶんなぐらせねばならないようなことをしたのは誰だ!」とみんなどなりました。

 

 有名な「山びこ学校」(1951年)の一節です。

 この子たちが何をしたかというと、火鉢の中に紙を入れて煙をくゆらせたという実に他愛ないものです。その程度で全員が「ゲンコもちでぶんなぐ」られるわけですから、いかに終戦直後の山形県の学校が平和だったかが分かります。無着先生がそれまで暴力を振るわずに済んだのも理解できます。しかしここで注目すべきはそのことではありません。

 

 大切なのは無着先生がゲンコツを食らわしたことで、子どもたちは事態を特別なこと、看過できないことと見直したという点です。火鉢の中で紙がくすぶっているという、よくありがちな、取り立てて問題とも思えない事実が、実はとんでもなく重大なことだと、ゲンコツを契機に捉えなおしたのです。体罰にはそうした効果があります。

 体罰の第二の有効性は、事態の昇華、ステージ・アップ、と表現できるものです。

 

 年配で体罰を肯定あるいは容認する人の一部はノスタルジーに支配されています。彼らは「先生にぶん殴られて眼が覚めた」とか「先生に殴られて本気で考えるようになった」とかいった強烈な思い出を持っているのです。

 それは自分にとって重要な転換点であり、それがなかったら現在の自分もない、人生はもっと悪いものになっていたろう――そう思える経験です。彼らはその日のことを長く忘れず、それゆえ自らに大変革をもたらした“体罰”に強い親近感を持ちます。

 

 私はWebの最初の方のページにスティーブ・キングの一節を掲げています。

「子どもってのは、誰かが見守っててやらないと、なんでも失ってしまう」「スタンド・バイ・ミー」

 私自身もそうでしたが、子どもはいつもつまらない見栄や意地・行きがかりのために大切なものを捨ててしまいます。

 不良グループと一緒にいてもろくなことはないと知りながら、抜けるのは根性が座っていないみたいでカッコウ悪い。 “いじめ”が悪いなんて百も承知だが行きがかり上、はずれることもできない。こんな生活を送っていても将来に何の展望も開けないと分かっていながら、今さら真面目になるのは気恥ずかしい――そうした、穏やかな説得や切々とした説教では動かない頑固で依怙地な自分の気持ちを、“先生”は暴力まで使って止めてくれた。

 

 彼等が懐かしんでいるのは“暴力”そのものではありません。自分の行為や状況を一瞬にして日常から切り離しまったく別のものとして提示してくれた、 “先生”はそれを通して本気で生き方を考えさせてくれ、自分は自己変革に成功した――そういう精神浄化の物語なのです。

 

 同じ体験は一部の教師にも共有されます。現状に疑問を持たずに気ままに暮らしている子どもたち、あるいは肩で風を切って歩く不良少年には、そうした強硬な手段が必要なのだ。通常の指導、言語を介した取り組みでは劇的な変化は望めない、教師と生徒が真剣勝負の土俵に同時に登って自己を見つめ返すためには、強烈なインパクトが必要だ――彼らはそう主張するのです。

 

「けれどそれは暴力抜きでもできるはずだ」

 そんな反論が聞こえてきそうです。実際その通りです。

 暴力抜きでも立派な実践をする偉大な教師はいくらでもいます。しかしそれは誰にでもできる技ではありません。基本的に、経験の少ない若い教員には難しいことで、ベテランでも能力に欠ける教師は大勢いるのです。

 

                                       (この稿、続く)