「教育勅語」は1890年、第一回帝国議会が開かれた年に公布されています。直接的には明治天皇が当時の総理大臣と文部大臣に下した勅語というかたちをとります。
それを遡ること10年前、明治新政府は危急存亡のときを迎えていました。西南戦争(1877)は無事乗り切ったものの続く自由民権運動は燎原の火のごとく燃え広がり、政府要人は明日こそ日本版フランス革命かと恐れたほどです。
それを「国会開設の詔」でかわし、硬軟両面作戦で民権運動を潰し、ようやく自分たちに都合の良い形での帝国議会を立ち上げたのですが、彼らには10年前の恐怖と未来への不安が残っていました。
考えてみればつい20年程前まで、六十余州270ほどの藩に分かれてそれぞれが自分の「国家」だと思っていた国です。さらにまた、西欧でキリスト教が果たしているような統一的な精神的背景もまったくない。そんな国で民意をすくい上げたら、いつまた自由民権運動のような混乱が起こって国家が危機に瀕しかねない。かれらはそんなふうに考えたのです。
そこで何らかの精神的支柱が必要となるのですが、明治政府の性質上、外来の儒教や仏教、キリスト教に頼るわけにはいかない。新たな価値を創設しなければならないのですが・・・。
「教育勅語」は中村正直が原案を書いたものに内閣法制局長官の井上毅が猛然と抵抗し、結局井上自身が全面的に書き換えてかたちを整えたものです。井上が中村案に噛みついたのは、中村案があまりにも宗教的・哲学的であったためです。
宗教や哲学は必ず相対化されます。必ず批判され抵抗されます。しかし「国家の精神的支柱」は万民から理解され、受け入れられるものでなくてはなりません。したがって最低限を提出するにとどまります。そうした配慮から、実際の「教育勅語」はつくられます。 一行目の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ(私が思うに我が皇室の御先祖が国をお始めになったのは遥か昔のことであり、その恩徳は深く厚いものです)」あるいは中盤下の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(もし国家に危険が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、天下に比類なき皇国の運命を助けるようにしなければなりません)」あたりは問題があるかもしれませんが、他の部分「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ・・・(父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し・・・)」は何の問題もない、それどころか現代でも通用することばかりです。そしてそれだけに思想の深まりはなく、影響力も十分なものではありません。結局そうしたところに落ち着かざるを得なかったのです。
道徳を文書化するというのはかくも難しいのです。政府が教科書をつくろうとしても結局、現在各出版社が作成している副読本以上のものができるとは思えません。誰からも非難されないような教科書をつくるとすれば、どうしてもミニマムなものにならざるをえないからです。
そのことも念頭に置いて、道徳の教科化の行方、今後も注目していきたいと思います。