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「バングラディシュ、レストラン襲撃事件」~有志の人々とテロリスト群像①

 バングラディシュのレストラン襲撃事件はまだ詳細が出てこないので何とも言えませんが、一説に欧米文化に汚されてイスラムの伝統が失われることに危機感を持った若者が、ISに触発されて行ったテロルだという話があります。もしそれが本質だとすると日本の幕末の攘夷運動と同じで、根本には異文化に対する生理的な拒否感があるということで、感覚の問題ですからかえって厄介かもしれません。
 また別に、彼らが裕福な家庭に育ったインテリであることに注目する論説もあります。この場合はインターネットを通じてISに接触し、感化されやすいのは富裕層の若者たちだ(貧しい人にはネット環境がないから)という話になりますが、さてどうでしょうか。私はむしろ貧しい国民の中にあって豊かで高等教育まで受けさせてもらった人間の、悲壮な責任感といったものを想像します。
「人々を踏みつけにして、自分たちだけが安逸をむさぼってはいけない。自分たちも痛みを背負わなければいけない」といった感傷です。
 こうした感じ方の源泉は “ナロードニキ”にあります。

 ナロードニキは19世紀の半ばのロシアで、残酷なまでに虐げられた農民の中に入って教育を行い、農民自身の自覚と努力によって真の解放と自由を実現しようとした人々で、中核となったのは地主貴族階級の子弟たちでした。標語「人民へ(ヴ・ナロード)」からそう呼ばれます。
 ところが農民からみれば彼らこそ胡散臭い連中でした。なぜなら農民たちは自らの貧困をロシア皇帝のせいではなく、まさに目の前の地主貴族のせいだと考えていたからです。そこの子弟がズカズカと入り込んできて読み書きを教えたり医療を施したりするのです。怪しいくないわけがありません。彼らはなかなか受け入れられません。
 一方ロシアにおけるフランス革命の再現を恐れた政府は、平和な社会活動であったナロードニキを厳しく弾圧しはじめます。そして政府から追及され農民の間に居場所のなくなった彼らは次第にテロに走り始めるのです。

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その始まりと終焉までの過程は、明治・大正・昭和を生き抜いた社会主義者荒畑寒村の「ロシア革命運動の曙」(岩波新書:絶版)に美しく描かれています。
 生真面目で純粋で理想主義的な生き方は政治の世界では潰れるしかありません。それは現実性がないといことであり、清濁併せ呑むような度量に欠けるということであり、人間や社会が理解できていないということだからです。初期の尊王攘夷運動自由民権運動の一部、二・二六事件青年将校たち、安保闘争の若者たち――すべて同じです。

ナロードニキ運動」はほどなく終焉しますがその意思はのちの社会革命党(エスエル)に引き継がれます。レーニンのボリシュビキとともにロシア革命を成功させ、やがて消されていった人々です。

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 その中心人物のひとりでありエスエル党のテロ部門を担ったサヴィンコフは「蒼ざめた馬」で有名な小説家であり、「テロリスト群像」はその回想録です。「ロシア革命運動の曙」と「テロリスト群像」を続けて読むと、ロシア革命のボリシュビキ的ではない側面を一通りたどることができます。そして、こう言っては身も蓋もありませんが、エスエル党はナロードニキ運動は性懲りもなく繰り返したとしか言いようがないのです。
 思いつめる若者はいつの時代も同じです。貴族の馬車に爆弾を投げつけようとして投擲姿勢に入った瞬間なかに子どもを見つけ、絶好の機会を逃してしまう、そうした純粋さは何百年たっても変わりませんし、だからこそ失敗します。

 さて、今回ダッカで事件を起こした犯人たちがナロードニキエスエル党員と同じようなタイプの若者だったのかどうかは分かりません。私はただ、彼らが豊かな家に育ったエリートでしかも7人で計画してやった(7人が同時に狂っているということもないだろう)ということからある種の信念があったのだろうと推測したまでです。その信念の中身までは分かりません。またナロードニキたちが狙ったのは貴族や政府要人であって一般民衆を巻き込むことは極力避けましたからその点も異なります。
 ところが切ないことに信念とか純粋とかいった話になると、日本人被害者の側にこそそれがあったのは明らかなのです。当初、被害者が特定されない時期にも、若い女性が含まれていることは予想できましたが、まさか六十代、八十歳といった有志の人がいるとは想像だにしませんでした。

(この稿、続く)