理由はない

 冗談ですが、「誰かに追いつめられて自殺するときは、遺書に『○○さんを恨みます』とだけ書いて死ぬのがいい」という話があります。

 理由を書かないことが人々の妄想を掻きたてる。何か分からないがよほどの事情があったに違いないと、みんなが思ってくれる。家族でさえも心の隅に「何か口には出せないことをしたのだろう」と疑心暗鬼になってくれる。そうなると名前を書かれた○○さんには、一人の味方もいなくなるというのです。

 逆に、理由をこまごまと書いた場合はどんなに苦しい状況を正確に伝えたところで、「そのくらいで死ぬのか」と疑問を持つ人が必ず出てくる。「この程度のことで死ぬ奴はバカだ」とそこまで言われかねない。だったらやはり理由は書かず、ただ「○○さんを恨みます」と書いておくのが得策ということです。

 因果律というのは「物事はすべて原因があって生じる」という法則のことを言います。しかし原因と結果は必ずしも1対1の関係ではなく、多くの原因がひとつの結果を生みだすこともあれば、原因と結果が著しく非対称の(対応しない)場合だってあります。

 私はかつて、歯が痛くて自殺した人の話を聞いたことがありますが、誰もが知っている原因が歯痛だっただけで、ほんとうはおそらく自分でも説明できない山ほどの原因があり、最後の一押しを歯痛が行った――かろうじてバランスを取っている天秤の、片方の皿に乗った1gが竿をひっくり返ってしまった、そんなことだったのです。

 ニキ・リンコというアスペルガーの女性に『自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく』という著書があります。またこの人の記述の中に「アスペルガー、そこには浅〜いワケがある」という言葉を見ることもあります。

 言い方は違っても内容は同じです。要するに「結果の重大さ激しさゆえに、それにふさわしい原因があると思われがちだが実はそんなことはない。深い理由など全くない場合がある」ということです。

 不登校について言えば、野村知二という方が論文の中でこんなふうに言っています。

 面接を通じてより興味深いのは、原因や動機をはっきり覚えていない(語れない)子が多いことである。年単位の不登校の状態ともなると、学校に行かないようになったもともとの原因や動機は記憶の彼方に流れ去り、必ずしも今、休み続けている原因とはならなくなっている。「休んだ原因は?」と問われ、どうしても思い出せない子もいる。

 子どもが「学校へ行きたくない」と言いだすと私たちは必ず「なぜ?」と聞きます。それに答えを持っている子も持たない子もいますが、原因を言い始めたその子の“原因”があまりにも軽かったり、その“原因”取り去ってもなお学校に来なかったりする場合があります。

 私の扱った一人の子は理由を訊かれて即座に「ない」と答え、そのときは「ああ言いたくないのだなあ」と感じたのですが、案外正直なところをしゃべっただけなのかもしれません(その後、その子は学校にくるようになりましたが)。

 子どものどんな事象も十把一絡げに(例えば「登校拒否は病気じゃない!」のように)言ってはいけませんが、私たちもそろそろ、子どもたちの起こす様々な事象に、原因はないのかもしれない、あっても大したものではないのかもしれない、という思考に慣れなくてはいけないかもしれません。

 もちろん、大したものではないからいい加減にあつかってよいというのではありません。原因追求とその除去が問題解決の早道だという思考の呪縛から、そろそろ解放される必要があるということです。