個性とか個性教育・個性を伸ばす教育とかいったもの、分かるようで分からないところがあります。
とりあえず世の中で個性的な人といえばたいていは“変わり者”です。悪くはありませんが日本中があんなもので満たされてはかないませんし、あまり積極的に育てたくなる代物でもありません。また学校では“個性”を「その子らしさ」ということがありますが、躾が全然なっていないとか、すぐに手が出るといった「その子らしさ」を大切にしていいはずもありません。
個という漢字の中の「古」は髑髏の象形文字で、「古い」という意味とともに「堅い」という意味ももちます。それを「国がまえ」で囲うから非常に堅い状況を表します。そうなると「個性」は「非常に堅い心のあり方」ということになりますからあんな“変わり者”や“困り者”の表現としては、どこか不適切な感じがするのです。
ピカソの作品は個性的だ、モーツァルトの曲は個性的だ、ブーニンの演奏は個性的だ、これらはいずれも分かります。しかし「個性教育」とはピカソやモーツァルトを生み出すことだとなっても困ります。だったら個性あるいは個性教育とは何なのでしょう。
個性派俳優というのを考えてみましょう。すぐに思いつくのは、古いところでは原田芳雄、三國連太郎、山崎努、少し下って竹中直人、安部サダヲ、三上博といったところです。女優さんだったら樹木希林、吉田日出子、桃井かおり、このあたりまでは間違いないのですが、あとは少々出にくいところです(他にもすごい女優さんはいくらでもいますが「個性派」というのとは少し違うような気がします)。
こうして並べてみると“個性派俳優”のひとつのポイントは、「置き換えが効かない」という点にあることが分かります。「竹中直人は何を演じても竹中直人だ」と言われますが、“その人”でないとダメなのです。
さらにその演技に価値がないとダメなことも明らかです。観る人に感動を与えるとか心を動かすとか、思い切り笑わせるとか、何かがないと個性派俳優とは呼ばれません。ここから“個性”の実態が見えてきます。つまり独自性と価値が“個性”の骨格なのです。
「躾が全然なっていない」とか「すぐに手が出る」といったことは独自性はありますが価値として認めることはできません。したがって”個性”として守る必要もないことが明らかです。また価値には高低がありますから、「あの変わった人」の個性とモーツァルトの“個性”はレベルの問題だということも理解できます。
そこから個性教育とか個性を伸ばす教育とか呼ばれるものの意味も見えてきます。それはこう「その子のもっている価値ある独自性を大切にし、その価値を高めてやる教育」定義できます。
「あの子は、お勉強はさっぱりだがお掃除はしっかりやる」というのはもちろん個性です。ですから「お掃除はしっかりやる」という部分は守らなければなりません。しかし守っているだけではダメでしょう。伸ばす必要があります。
美化という側面から見れば、この子は公共の場に花を飾ったり取れかかった掲示物を直したりするようになればいいですし、嫌な仕事も厭わずできるという側面から見れば、他の場でも率先して仕事を引き受けられる子どもに育てなければなりません。
それが「個性を伸ばす教育」だと私は思うのです。