「学校五日制の話」~学社連携について①

 学校週五日制がいつどんなふうに始まったか、私も忘れてしまったので調べたら1992年(平成4年)の9月12日でした。この日が9月の第二土曜日で、以後しばらく月の第2土曜日だけが休みの変則的な学校五日制が始まりました。年度の途中から始まっているのを見れば分かるように、非常にあわただしい決定でした。

 

 もちろんすでに1986年の臨教審答申で、学校五日制については「検討すること」とされていましたし、(当時の)文部省も研究指定校を決めて実施の準備を進めていました。しかし文部省のやることですので、誰もが実施はずっと先のことだと思っていたのです。

 

 ところが1991年の10月、自民党の「学校五日制に関する小委員会」は唐突に平成4年度のからの「学校五日制」決め、さすがに翌年4月には間に合わないので9月からの実施ということになったのです。文部省に任せていたらいつまでも決まらないから自民党で決めたといった印象でした。

 

 蚊帳の外に置かれた文部省は慌て、平成元年度改定指導要領で授業を始めたばかりの学校はうろたえ、長年週休二日制を要望してきた日教組までもが「性急な五日制は困る」と反対したほどです。しかし流れは止められません。当事者の私たちも喜ぶより先になんとも説明つかない恐怖のようなものを感じたものでした。

 しかしなぜそんなに急いだのか。
 そこには教育とはまったく無関係な事情がありました。それは年間労働時間1800時間の達成という国際公約の実現です。

 

 それまで4年以上に渡って日本製品は世界を席巻し、特にアメリカ経済を踏み潰そうとしていました。そこで出てきた批判が、「とにかく日本人は働きすぎじゃないか。週48時間も働く日本人に国際基準の週40時間を守るアメリカが太刀打ちできるはずがない。アンフェアだ」というものです。合衆国は80年代を通して不況に苦しんでいたのです。

 1991年(平成3年)は、あとから考えるとバブル経済の崩壊が進み始めた年でした(バブル崩壊は1990年に始まり、93年にはっきりと体感されるようになったとされています)。何とか崩壊を食い止めようとしていた政府は、最大顧客のアメリカの言うことを聞かざるを得なかったのです。

 

 怒るアメリカをなだめるため、政府は官公庁の完全週休二日制などの施策を打ちましたが、大企業はともかく中小・零細企業の週休二日制はまったく進まない・・・そこで出てきたのが、学校五日制です。学校の土曜日を休みにしてしまえばパートの主婦を中心に土曜日の勤務ができなくなる(=週休2日が進む)と考えたのです。
(これには前例があって、例えばドイツでは夏のリゾート地への観光客の集中を避けるため、学校の夏休みを州ごとでずらしたら見事に解消されたといった事実がありました)

 さて、しかしだからと言って「企業の週休二日制を推進するために学校五日制を始めます」とは言えません。いずれ完全学校五日制に移行しなくてはなりませんから、授業時数の縮減は必然です。さらに毎土曜日に子どもが家にいるということになればそこにも手当てをしなければなりません。そこでとんでもない理由づけがなされます。それが「ゆとり教育」と「学校のスリム化」です。学校はここから大変な目にあうのです。

 

 (以下、続く)