陸前高田で津波によって倒れた松に被災者が言葉を書き込んで京都五山の送り火(大文字焼き)で燃やそうという計画に、検出されなかったとはいえ放射性物質が含まれているかもしれない薪を燃やすのはけしからんという市民から非難が相次ぎ、やむなく中止にしたところ、今度は中止したことに対する非難が300件にも及び、そのため京都市は急遽新たな薪を取り寄せたのですがその薪から放射性セシウムが検出されてしまって、結局一連の動きは風評被害を拡大しただけという事件がありました。
どこに問題があったのでしょう。
ひとつは最初の「放射性物質が含まれているかもしれない薪を燃やすのはけしからんという市民から非難」に対して、関係諸団体が安易に反応してしまったことにあります。
線量計によって安全と確認された薪を「それでも放射性物質がついているかもしれない」と抗議するのは明らかに行きすぎです。ですから聞く耳を持たなくてもよかったようなものですが、世の中には「ごく少数であっても、本気で心配する声には耳を傾けなければならない」という原則もありますから、やはりやめたほうが・・・と考えたのかもしれません。しかし社会的影響力を考えれば、一度世の中に出てしまったものを引っ込めるためには相当の根拠が必要だったはずです。この場合、引っ込めるだけの理由はありませんから、明らかな科学的データを盾に、そのまま突っぱねればよかったのです。
サイレント・マジョリティ(Silent Majority:物言わぬ多数派)という言葉があります。敢えて強く発言しない多数派という意味です。
私は知らなかったので今回調べたところ、サイレント・マジョリティの反対語はノイジー・マイノリティ(Noisy Minority)またはラウド・マイノリティ(Loud Minority)と言うのだそうです。「声高な少数派」と訳されます。
今回の事件は最初の非難をノイジー・マイノリティの声だと判断できなかったところに端を発しています。
実は、学校というところも繰り返しこうしたミスを犯します。私の実体験だけでも、
- 生徒が異常に高額な靴を履くようになったために下足まで統一しようとしたところ、指定靴よりさらに安い靴で登校させていた保護者から猛烈な非難を受けたこと、
- ときの校長先生が保護者からの強い要請を受け、社会的風潮も鑑みて家庭訪問を“玄関先のみ”と決めて家に上がることを禁止したところ、「折り入って話したいことがある」「一年に一回くらいは腰をすえて話を聞きたい」といった保護者からの強力な要請が多数寄せられ、一年で元にもどすことになったこと
など相当数の例を上げることができます。
では、こうしたミスを防ぐにはどうしたらよいのか。
やはりそれが多数であるかどうかの確認は必要でしょう。全体に投げかけ、可否同数であるような場合は学校が独自に判断すれば良いことです。もちろん多数意見だからといって何もかも受け入れるのではなく、学校として信念をもって説明できることがあれば説明すべきです(どうでもいいことであれば多数決でもかまいません)。
もうひとつは、常識に従えということです。越前高田の松について言えば、線量計で放射性物質が検出されなかった薪は燃やしても良いのです。一本一本に心を込めて文字を書いた人の気持ちを考えれば、中止にするという選択肢は最初からなかったはずです。