サイレント・ワーカー

 昨日、雪から激しい雨の中を帰ろうと駐車場に向かったら、私の車の二本のワイパーが凍結防止のために跳ね上げられていました。まだ雪の降っている時間に、どなたかがやっておいてくれたのでしょう。ほんとうにありがたく思いました。

 世の中にはこんなふうに他人を気遣い、他人のためにちょっと手を添えてくれる人がたくさんいます。中には「〜こんなふうにしておきました」とわざわざ報告に来てくれる人もいますが(それだって悪くいない)、普通は誰がやったものか分からないようにそっとやっておいてくれるのです。さらにまた、中には自分のやった証拠を丁寧に消して誰がやったか分からないようにしてしまうといった手の込んだ人もいます。実に徹底した配慮です。これは人間として当然のことといったレベルの話ではありません。非常に高い所業です。

 最近、ある本を読んでいたら「フランスの店員たちはなぜあんなにも不機嫌なのか」という話が出ていました。それによると「フランス人にはサービス(service)は召使(servant)の行うべきものという意識がある。そこで相当に気合を入れて気位を高くしておかないと、個人としての人格が保てないのだ」とのことでした。民族が違えば考え方も違うものです。

 日本においてサービスとは「無償で行われる付加価値の付与」です。それは「付け加えなくても良い価値」であって、しかも基本的に無償でなくてはなりません。結果的に人間関係や売買関係を円滑にするにしても、それが目的であるわけではありません。そして(もちろんサービスの支出過剰になればイラつくこともありますが)、本質的には一方的に行われるものです。

 日本人はこの点を実にうまくやります。

 日本の店員のちょっとした仕草や言葉がけ、包装紙の粋なデザインや丁寧な包装技術。自家用車をはじめとするあらゆる日本製品について言える、目に見えないところまで配慮の行き届いた製品づくり。それらは企業・官公庁ばかりでなく、個人のレベルでも行われます(最近、息子がネットオークションで落札したし品物には、表示になかった「オマケ」までついていたそうです。大したものではありませんがそれにしても気遣いです)。

 学校内も同じです。校舎内あちこちに飾られている生花について、いちいち「私が活けました」と報告があるわけはありません。花瓶の周辺のどこを見ても「○○作」などといった名前の表示があるわけでもありません。お茶やコーヒーの不足は誰かが補っていますし、りんごを切る係というのもあるわけではないのに、誰かが用意してくれます。

「ああ、あんなところで掲示物の画鋲がはずれている」と気がついて、しかし忙しさに取り紛れて後回しにしているうちに、気がつくといつか誰かが直してくれている、そういうことがあります。期日を過ぎたポスターも長く掲示されたままということはありません。雪が降ったら降ったで雪かき当番が決まっているわけではなく、そのときできる人が率先してやる、そのときできない人は別の形で学校を支える。

 考えてみると、学校の中は常にそうしたサイレント・ワーカーに支えられています。社会がそういうものだということ、子どもたちも早く知らなければなりません。