「とつぜん思い出した詩の一節が妙に感慨深かった話」~三好達治の「雪」

 久しぶりの大雪が降った日曜日の朝、
 次郎さんの家を訪う妻に、詩の一節を話した。
 曖昧な記憶をもういちど確認し直すと、
 何か懐かしく暖かなものが沸き上がってきた。

という話。f:id:kite-cafe:20220220162311j:plain(写真:フォトAC)

【次郎さんの雪かきと三好達治の二行詩】

 昨日の朝、妻が20歳も年上の友人に電話して、頼みごとがあるので伺っても良いかと話をしていました。元教師の女性です。
 その際、ずいぶん降ったがそちらの雪は大丈夫か(自家用車で入れるか)と訊いたところ、ちょうどいま夫が雪かきをしたところだから、安心して来なさいとのことでした。

 御夫君は名前を田宮次郎といい、字は違いますが往年の大スターと音が同じです。容姿はまったく違う80歳代の好々爺。その次郎さんが雪かきをしている姿を想像していたら、ふとひとつの詩が浮かびました。
「太郎の家に雪降り積もり 次郎の家に雪降り積もり」

 妻が「何、それ?」と訊くので、
「あれ知らないの? 荻原朔太郎の詩だよ」
と言いながら、不安になってネットで調べると朔太郎ではなく三好達治です。
 妻には「そうだよね。朔太郎ならこんな暖かい詩は書かないよね。『氷を愛す』だもの」と訂正しましたが、これも朔太郎ではなく室生犀星でした。しかも詩の冒頭は「我は張り詰めたる氷を愛す」。「氷を愛す」だけだと「氷はアイス」と勘違いされそうです。

 太郎と次郎の雪の詩も、多少違っていて、元は、

   雪       三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。


 それを聞いた妻が、「ちょっとメモするから待って」といい、なぜか筆と半紙を持ち出してサラサラ書くので、「その半紙、ボール紙に貼ってお土産にしたら?」という話になってでき上ったのが下の写真です。
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*いま気がついたのですが、「雪 降りつむ」は間違いで「雪ふりつむ」が正しい表記です。

【太郎は誰? 次郎は誰?】

 ところで、私の参照したサイトでは、「太郎と次郎は兄弟か」とか「暗示される母の存在」とかいう話があって、ちょっと首を傾げました。どうしてそういう解釈になるのでしょう?
 太郎というのは広く「日本の男の子」という意味で、特定の誰かをさすものではありません。「ポチ」と言えば多くの場合「従順な犬」という意味でつかうのであって、特定のポチの話をするためには何らかの修飾をしないと話が通じなくなるのと同じです。太郎・次郎と聞いても、「南極物語」の二頭の犬を思い起こす人はいないでしょう。

 だから太郎の家の屋根に雪が降り積もり、次郎の家の屋根にも雪が降り積もりというのは、「あっちでもこっちでも」といった程度の意味で、特定のどこかの家ではありません。雪はそんなふうに誰かを狙って降ることはできないからです。
 また、太郎を眠らせたのが母親なら、文脈上、屋根に雪を降り積もらせたのも母親でなくてはなりません。けれどそんなことはありえない。

 雪の降る夜は恐ろしく静かで、その静けさによって太郎や次郎を眠らせ、その家を包み込んでしまったのは雪です。したがって「ふりつむ」は「降り積む」ではなく、むしろ「降り詰む(包み込む、ふさぐ)」という意味になるのだと私は思います。
 ふんわりと暖かな雪が町全体を包み込んでしまうさまは、私たちの原風景とも言えるものです。三好達治の「雪」は山村風景を思い起こしやすいものですが、都会の住宅地だってかまいません。