「精神的自立」というのは、一言でいえば「ある程度社会と調和した『統一的な自分』を持つ」ということです。アイデンティティの確立とか自我の獲得といったものと近い概念かと思います。
『統一的な自分』というのは「自分の中に矛盾がない」ということ、例えば「いい高校には行きたいけど、勉強はしたくない」といった願いを持たないこと、「努力するのは嫌だけど、運動会では一位になりたい」「金は欲しいが働くのは嫌だ」といった「矛盾した気持ち」に振り回されないことです。
ただし矛盾がないといっても、「死刑になってもいいから人を殺したい」とったことは認められませんから、そこで「ある程度社会と調和した」という条件がつくことになります。
精神的に自立できていない人間を見つけ出すのはとても簡単です。すぐ人のせいにするのです。
彼らは 『統一された自分がない』=「自分の中に矛盾がある」のですから、選択音痴です。選ばなければならないときしばしば迷い、選択そのものを回避してしまいます。ズルズルと問題を先送りにし、その挙句「何も選択しない」という道を選択してその結果を突きつけられる。本人にしてみると「選ばなかったのに責任を迫られる」わけですから非常に不本意で、その責任までも回避しようとします。あるいは選択しても、その結果が気に入らなければ受け入れません。つまりどちらにしても、責任転嫁をするのです。
ですから精神的に自立した子どもを育てたかったら、やったことの責任は常に本人に取らせるよう、小さいときからしつけなければなりません。特に親のせいにしてことを済ませようとするなら、厳しくつき返さなければならないのです。「悪いのは誰なの?!」ということです。
「欲しいおもちゃがあるなら、あなたは店の方に丁寧に尋ねなければならない。知らない大人の人とのきちんとした対話が嫌なら、おもちゃの方を我慢しなさい」
「新たに見たいテレビ番組が始まるなら、あなたは今日まで見てきた別の番組を我慢しなければならない。今までの番組が諦められないのなら、新しい番組を諦めるしかない」
「クリスマスだからといって二つのおもちゃを買うことはできない。あなたは一つを選び、もう一つは諦めなければならない。そして何があろうと、(次の誕生日でもこない限り)諦めたもう一つを、あなたは手に入れることはできない」
そしてそうしたことの責任は自分で取らせるのです。
ただしそれは「おもちゃ」だの「テレビ番組」だのといったどちらに転んでも被害の少ないことについてであって、「学校に行かない」だの、高校を受験しないなどといった重大な問題を子どもの決定に任せ、責任を取らせるようなことは絶対にしてはいけないことです。
それはもちろんのことです。