村山内閣のころですから、もう10年以上前のことになりますが、ガバナビリティ(governabilty)という言葉が「統治能力」という意味で流行しかけたことがあります。「村山首相のガバナビリティは・・・」といった使い方をしました。
ところがちょうどその時期、アメリカのクリントン大統領が「日本人の優れたガバナビリティは・・・」などと言い出したので、わけが分からなくなりました。メディアは慌てて調べ直したのか、以後この言葉はマスコミ誌上に見られなくなります。ガバナビリティは「被統治能力」とでも言うべきもので、クリントンは「日本人は統治されることに優れた能力をもっている」と考えていたのです。
「被統治能力が高い」というのは何も政府の言うままになっているという意味ではありません。まずは政府(=国民の代表者)を信じ、政府の言う通りやってみて、しかしダメならきちんと手続きを踏んで正当な方法で政府を改変する、そんな能力のことです。最初から言うことをきかないといった、世界にありふれた国民のあり方と比べると、確かに日本人のガバナビリティは高いと言えそうです。
さて、これを思い出したのは昨日の職員会で「低学年の男子が指示に従えず、6年生の班長が苦労していた」という話があったからです。私たちは普通、これを礼儀や秩序、態度や心構えの問題として捉えがちですが、もしかしたら能力の問題なのかもしれません。
ガバナビリティ(被統治能力)という言葉は、そうした可能性を思い起こさせます。
もしも能力だとしたら、できるだけ早く身につけてやらなければ可愛そうです。とりあえず係や班長、親や教師は間違ったことは言いませんし、間違いがあるにしてもごく稀なことです。最初から指示に従わなければ、子どもたちにつくはずの力もつきません。
教師として取り組むべき、最初の仕事のひとつだと考えます。