「ニーバーの祈り、私たちが変えられるもの」~日本人の自立と不羈について②

 新型コロナが現実の問題となってはや1年数カ月。
 人々は既に耐え難くなっている。
 だからといって決定的に優れた別の道があるわけではない。
 誰かのせいにすべきでもない。
 変えられるのは自分だけ、自分を置いて他にない。

という話。

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(写真:パブリックドメインQ)
 
 

【私たちが育ててしまった子たち】

 最近の話ではありませんがひところ、緊急事態宣言下の渋谷のスクランブル交差点あたりで遊びに来た若者にマイクをむけると、
「感染対策もしっかりしているし、若いから重症化しないと思って遊びに来ました」
とか、
「見ればたくさんの人が来ているし、ずうっと自粛してきたからもう我慢できなくなって――、ロックダウンでもしてもらわないと、どうしても出て来たくなっちゃう」
とか平気で答えている場面が見られました。
 これが私の子だったらその日のうちに実家へ強制送還、その場で切腹を命じるところです。

 前者でいえば、
「オマエが感染するかどうか、重症化するかどうかは世の中にとってどうでもいいことだ。問題は感染しても絶対病院に行かず、医療にも友だちにも迷惑をかけず、家の中でひとりで過ごせるか、無症状の時期も含めて、“絶対に誰にもうつさずに他人の命を守る”と断言できるのかということだ」
ですし、後者については、
「オマエ、『私は他人に流される人間です』『もう自分で自分が制御できませんから、どうぞ牢屋にでも入れてください、いや一人で入るのはイヤですからロックダウンで全員閉じ込めてください』と、そんな恥ずかしいことを全国放送でよくも言えたものだ、我が家の恥だ、家族の顔に泥を塗った、だから腹を切って家族とご先祖様と全国にお詫びしろ」
という話です。

 もちろん我が家の二人の子はそんなアホを言うようには育っていませんが、私も元教師です、渋谷でアホを語っているあの子たちも広い意味では教え子で、あんな子どもを育ててしまった私こそ切腹すべきかもしれません。心から恥じ入ります。
 しかしどうしてあんなふうになってしまったのか――。
 
 

【文明人は政府を許さない】

 それはひとつには彼らが文明人だからです。
 文明というのは人類がそれまで個人として、あるいは家族など小さな集団として担ってきた苦痛や苦労を、機械やシステムや、他の誰かに担ってもらう仕組みです。昔は川や井戸のそばで自分が手でやっていた洗濯を、洗濯機に任せたり、病気やけがで働けなくなったときに最低限度の生活を保障してもらったり、食料を生産し、運んでもらい、場合によっては調理までやってもらうのが文明生活です。だから人間はどうしても幼児化します。
 面倒なことは誰かがやってくれるはずだ、苦労は誰かが担ってくれるはずだ、危機は誰かが取り除いてくれるはずだ――。

 したがってコロナ禍においても、自粛などというとんでもない困難を自分に押し付けて、1年半も解決できない政府が許せません。私のためにやるべきことをやっていないからです。
 ネットで見ていますと“コロナは誰がやってもうまくいかなかった”という意見に対して、
「誰がやってもうまくいないなら誰でもいい、菅だけは辞めてもらいたい」
と書き込む人までいて、その怒りはハンパではありません。
 さらにそれを煽る人たちもいます。
 
 

【マスメディアが煽る不満】

 昨日来たばかりの月刊「文芸春秋」(10月号)には『コロナ無責任報道をしかる』という記事があり、その冒頭はこうです。
 コロナ下の新たな日常で困りもののひとつは、お籠り生活の中、仕方なく新聞を開きテレビに目をやる時間が増えてしまうことだ。晴れるどころか、さらに鬱々とした気分になるのは筆者だけではあるまい。
 まるで駄々っ子の言い草だ。緊急事態宣言など強力な措置を求めておきながら、いぎ実行されると経済活動が行き詰まるぞと当たり前の影響をあげつらう。思い悩めば後手だと叩き、結論を出すと拙速だと責め立てる。政権が社会を分断したと決め付けるが、そもそもは自分たち既存メディアが政権擁護と政権叩きとで両極に分かれ、実は分断させた側に立つことの自覚が微塵もない。

 まったく同感です。とにかく国民の不満を掻き立て煽り、政権を叩き、政策をバカにする。菅義偉がダメなのはかまわないが、だったら誰がよかったのか。
「アンケートによれば――」
 いや国民の意思を問う前に、私はオマエの意見が知りたい。どういう目算があって菅内閣を潰そうとしたのか、誰が良かったのか、岸田か、石破か、枝野だったのか。
 自民党総裁選挙が難しくなればコロナ対策が手薄になるということも、素人ですら分かることなのに――と思うのです。
 
 

【ニーバーの祈り、私たちが変えられるもの】

 私は最近「ニーバーの祈り」という美しい文章の存在を知りました。これはアメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892-1971)が作者であるとされるもので、アルコール依存克服のための組織や、薬物依存や神経症の克服を支援するプログラムで採用され、広く知られるようになったと言われています。
 その最初の行はこうです。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。


 新型コロナ禍という状況は個人で変えられるものではありません。変えられるのは“私”だけで、私たちは“自分自身”を変える勇気を持たなくてはいけないのです。それは不要不急の外出を避けるとか、飲みに行かないとか、許可されたコンサートでも三密やマスクといった感染対策を十分にして騒がない、とかいったことです。

 この国は、アメリカで個人に支援金を渡したと聞いて10万円の特別給付金を出し、ヨーロッパでは企業や営業主に給与補償をしていると聞いて休業支援金や雇用調整助成金、持続化給付金などを出す、つまり二重三重に補償を行う国です。それは確かに実際の支払いが遅れているのは事実ですが、それも公務員を極端に減らして予算を他に回したからです。

 保健所の職員も足りなければ国立公立の病院も少なく、政府が一括して新型コロナ病床を増やしたり患者を振り分けたりといったこともできません。それも私たちが望んだことで、医療制度改革が遅れ、国立病院だらけの状況を解消できないでいたイギリスやドイツとは決定的に違うところです。

 80年以上も前、私たち日本人は政府の言うことに唯々諾々と従ってあの不幸な戦争を止めることができませんでした。しかしだからといって政府の言うことにいちいち逆らうことが正しい道とは言えません。
 変えられないものと変えるべきものを区別する賢さをもち、政府や地方公共団体が「あれもしてくれない、これもしてくれない」と嘆く前に、まず自分たちで何ができるかを考え、実践できるような、自立的で不羈の気風に溢れた人間を育てたいものです。
 それが私の願いです。


(付録:「ニーバーの祈り」全文)
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。

これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。

あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。

アーメン