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「一部の人々にとって、教育の対象はエリートだけ」~権威や権力がなくなることへの期待と不安⑥

 学校教育はひとりひとりのためであり、国家のためでもる。
 問題はそれがはっきり意識されないことだ。
 国が必要とする人材育成のための教育が、
 あたかも全員に必要なもののように紹介され、人々から支持されている。
 という話。(写真:フォトAC)

【教育の二つの側面】

 教育、特に義務教育は時に相いれない二つの側面を持っています。それは例えば教育基本法の中に見られます。
 第5条〔義務教育〕
 (2) 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
 前半で言っているのは、個人の自己実現の問題です。憲法に定められた「健康で文化的な最低限度の生活」を実現するためには「各個人の能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培」っておかねば憲法の理念も口先だけのお題目に陥ってしまいます。無知や貧困が世襲となって繰り替えされないためには、国家がその支援をしなくてはなりません。
 
 しかし教育基本法第5条二項の後半が言っているのは、また別のことです。ここで期待されるのは「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質」。つまり国家社会を維持し発展させることの人材を育てるのも義務教育の目的だと言っているのです。
 エリートはエリートとしての資質を高め、エリートとしての義務を果たせ。そうでない者はせめて「国家及び社会」の破壊者にならないようには教育をしよう、といった感じ――つまり国家の要請としての教育が語られているわけです。
 そして私たちはしばしば、この二つを分けて意識することはありません。

【一部の人々にとって、教育の対象はエリートだけ】

 例えば、
「これからの時代、学校で教えられた知識や技能だけでは生き抜くことはできない。自ら考え自ら学ぶ、創造的でたくましい、問題解決能力に長けた者だけが生き残れるのだ」
と言い切った瞬間、議論する人々の頭の中から、子どもたちの98%くらいは落ちてしまいます。いわば捨象されるわけです。
 だってそうでしょ? これを言う人たちは「もう知識や技能はいらない、代わりに創造性や問題解決能力を育てましょう」と言っているわけではないのです。「知識や技能」が必要なのは当たりまえ。前提。その上でそれだけでは不十分だと言っているのです。
 この議論には算数や国語で50点しか取れず、悪戦苦闘しているような普通の子どもは存在しません。子どもたちのほとんどは学校の勉強で常に100点を取り続けるような成績優秀者ではありませんから、これからの時代を生き抜くことはできない。しかしその件はまったく問題にはされません。

「先生の言うことを何でもハイハイと、その通りやっているような人間ではだめだ」
 まったくその通りです。しかし「先生の言うことを何でもハイハイと、その通りやっているような人間」、つまり何の苦労もせず、学校生活をスイスイと送ってしまう天才的な児童生徒って、各教室に何人います? 各クラスどころか各学校にだってひとりいるかどうか――。
 地方で言えばあるいは、地域のトップエリート高校の上位20名くらいなら、小中学校の9年間を「先生の言うことを何でもハイハイと、その通りやっているような人間」として生きてきた可能性もあります。しかしその他の子は多かれ少なかれ苦労して学校生活を送ってきたのです。次々に目の前に置かれる教育課題を、軽々と達成してきたわけではありません。

 それなのになぜこんな一部のエリートにしか通用しない教育論が世間にまかり通っているのか――それこそまさに「自己実現の道具としての教育」と「国家の要請による教育」とが区別されずに来たことによる混乱なのです。

【新しい教育は、ほぼすべてエリートのため】

 総合的な学習の時間も小学校英語もプログラミング学習も、実は国家の要請によって義務教育の教育課程に入れられたものです。この国にいて普通に生活している限り、英語が堪能であることもプログラミングができることも必須ではありません。しかしネイティブ並みに英語ができたりコンピュータの本質に通じた人材の育成は、国家にとっての急務です。

 総合的な学習の時間が狙う「生きる力(問題解決能力・豊かな人間性・たくましく生きるための健康や体力)」はすべての児童生徒に有用なものですが、「読み・書き・計算」を犠牲にしてまで取り掛かるべきものではありません。実はこれも「詰め込み教育」でエリートたちの創造性や個性が潰されることを怖れた一部の人たちが、無理やり教育課程の中に差し込んだ「エリートのためのゆとり」を保障する時間でした。ですからすぐに、
「優秀な総合的な学習の時間は優れた頭脳を刺激してより深い思考体験をさせるが、普通の子はただ遊んで終わってしまう」
と言われるようになってしまいます。

 総合的な学習の時間の枠内で行われた英語教育はまさにそういうもので、優秀な子どもにとっては中学校英語の礎になりましたが、多くの子どもはゲームをしただけで終わってしまいました。現在の小学校英語はおそらくそうはならず、ただ“普通の子”を振り落としていくだけの明け透けなエリートのための英語教育になるはずです。

(この稿、続く)