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「やはり小学校英語はいらない」~1%のエリートのために99%の凡人が苦しむことはない

 生涯、英語を使う機会がほぼゼロである日本人の割合は90%。
 必要に迫られて仕事で英語を使うことの時々ある日本人は9%。
 外国語習得に必要な時間はおよそ2200時間。
 そう考えると、やはり小学校英語はいらない。
 という話。(写真:フォトAC)

【翻訳アプリがあれば、英語を勉強しなくてもいいのか】 

 昨日のYahooニュースに転載されていたAERAdot.の記事が面白かったので紹介します。
「翻訳アプリがあれば、英語を勉強しなくてもいいのでは」 自動翻訳の専門家はどう答える?という記事です。
 
 内容をかいつまんで言うと、

  1.  一生にわたって英語を使う機会がほぼゼロである日本人の割合は人口の約90%である。
  2.  必要に迫られて仕事で英語を使うことが時々ある日本人の割合は人口の9%ほど。
  3. したがって英語が仕事の中心にあり、常時英語なしではやっていけない日本人の割合は人口のたった1%である。

 そのことを前提として考えた場合、

  1.  海外旅行などで稀に英語の必要があったとしても、他の外国語対応も含め自動翻訳で済ませばよい。
  2. 現在の自動翻訳を使いこなすには、中学・高校で文法や語彙の基礎力をつける1000時間程度はあったほうがいい。
  3.  コンピューターを媒介したらまどろっこしいと感じることもありうる。快適なコミュニケーションのためには、自らの語学力を改善することに大いに意味がある。そのときにかけるコストの問題である。
  4.  語学に向いている人はコストが小さい、そうでない人はコストが大きい。筆者は快適性とコストのバランスを個々が判断することに異論はない。

と、非常に明快な話です。こんな当たり前の話が、なぜこれまで議論の中心にならなかったのでしょう?


【やはり日本人に英語は必要ない】

 私もこのブログで再三、英語教育の拡大に対する反対を述べてきました。
 もちろんカリキュラムに余裕があって良き指導者が確保できるならやってもかまわないのですが、無理に小学校から始めることはありません。なぜならこの国で生きていく限り、英語なんてできなくても一向に困らないからです。

 小さい小さいと言われても人口が1億2600万人近くもいる国です。1万人に一人しか読まないような稀覯本を出しても1万2600部も売れる可能性があります。だから洋書は片っぱし翻訳されますし、映画もいちいち日本語版がつくられます。
 芸能で言えばAKBグループもジャニーズも海外展開に極めて不熱心です。無理もない、日本という巨大な市場を振り切って海外(基本的にはアメリカ)で一から出直しても、成功して収入の増える可能性はほとんどないのです。英語を必死に身に着けて外国に出ていく必要などありません。同様に中小の企業も国内だけで十分に採算が取れます。わざわざ冒険をする必要などないのです。
 特別な商品やサービスでない限り、個人レベルで外国に買いに行ったり売りに行ったりすることもなく、無理も冒険もする必要がない。その点で韓国やEUの国々とまったく違うのです。

【韓国やEU諸国は海外を目指すしかない】

 韓国の音楽市場は日米に比べると極端に小さい、だから最初から海外(主としてアメリカ)を目指さなくてはいけません。文化的成長が国の枠を越えてしまっているのです。映画産業も同様です。
 EU内の小国は最初から商売の相手を域内の外国に求めざるを得ません。なにしろブリュッセル―パリ間は直線距離で260km、東京―名古屋間とほぼ同じですし、ブリュッセル-ロンドン間の360kmは東京―大阪間(400km)より短いのです。したがってオランダのような国土も人口も少ない国でも、フランス語か英語が堪能ならいくらでも商売の幅を広げられます。いや、外国を相手にしなくては生きていけないのです。
 さらに娯楽も国境を越えます。オランダの若者は、日本人が国内のコンサートを渡り歩くのと同じ感覚で海外(フランスやドイツやイギリス)のコンサートに行くことができます。ディズニーランドにも行くでしょう。そして行くたびに学校で習った英語やフランス語は試され、復習されます。日本の子どものように英語を習っても使うのは学校の英語の時間だけ、というわけではありませんからあっという間に習得できます。
 外国語を学ぶ動機づけも習得環境も、まったく違うのです。

【1%のエリートのために99%の凡人が苦しむことはない】

 私は英語なんぞ学ぶ必要はないと言っているわけではありません。小学校から始める必要がないと言っているのです。
 なぜなら小学校というのはそもそもが「心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする」(学校教育法29条)ところだからです。そこで学ぶべきは、この国で将来「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法第25条)を送るために必要な最低限度の知識と技能です。
 必要最低限度だから数学で方程式や関数は学びませんし、国語で古文に触れることもありません。織田信長豊臣秀吉くらいは知っていないと日本人として恥ずかしいし、電池の並列と直列くらいは覚えておかないと日常生活に支障がありますから小学校で学んでおきます。同じ理由で英語やプログラミングは人生に必要ではないからやる必要はないのです。生きていくうえで必須ではありませんから。
 
 自動翻訳機が発達しても英語が必要なのは、そして2045年に予告されているコンピュータがコンピュータのプログラミングをするシンギュラリティを経てもなおプログラミング技術を必要とするのは、日本のトップエリートだけです。その人たちを小学生の内から鍛えておこうとする小学校英語とプログラミング学習は、要するに「一将(エリート)」功ならせるために「万骨(普通の児童)」を枯れさせる政策です。
 日本人の99%は英語なしに、あるいは今までの中高生程度の英語で事足りる人たちです。そんな凡人まで巻き込んで、わずかなエリートたちのために小さなうちから苦しめる必要はないのです。