「一人のジョブズを育てるために、みんなで耐える」~何とも言えない未来への不安③

 技術革新や合理化は必ずしも人々を幸せにしない。
 それなのに私たちは、技術革新や合理化を担う一握りのエリートを育てるために、
 普通の子どもたちの時間を奪い、無駄に遊ばせているのかもしれない、
 そう思ったら本当に気が滅入ってきた。

という話。

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(写真:フォトAC)

【新しい学力はすべての子どもにとって必要なものなのか】

 新学力観(『旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた』として、それに代えて学習過程や変化への対応力の育成などを重視しようと考える学力観)は、ひとことで言えば『なんでもハイハイと先生言う通りにしているようでは21世紀の(グローバル)社会は生きていけない』と信じる人たちの教育観」と言えます。

 「知識・技能」偏重の社会を是正して、主体性や思考力、問題解決能力を高めていこうとする考え方は1980年代から始まり、今日のアクティブ・ラーニングに綿々と連なっています。
 しかし結論から言ってしまうと、新学力観が提唱するような学力は、すべての人間にとって必要なものなのでしょうか? 学校教育の中でつけられる力なのでしょうか? すべての子どもたちにつけられるものなのでしょうか、私にはそれが疑問なのです。


【持っている者は持っている、あるいは必要な場で身につく】

 能力の低い人間には主体性や思考力はつかないと言うつもりはありません。
 図式的な言い方をすれば私のように、人生にうまく設計図を描けずにだらだらと普通科高校に進学して、そこから当たり障りのない法学部などへ進学し、さらに卒業後もフラフラとして30歳になってようやく腰を据えた人間に比べると、中卒や高卒で早くから社会に出てバンバン働いていた連中の方がよほど主体的で問題解決能力が高かったように思うのです。
 彼らは度胸もあれば根性も座っており、「1億円借金したって2億稼げばいい」みたいなことを平気で言って実際にやってのけます。まったく惚れ惚れとするほどです。
 彼らは私の同窓生ですから、総合的な学習の時間もアクティブ・ラーニングも経験していません。彼らの主体性や思考力、問題解決能力はそうしたものとは全く関わりなく、家庭か、旧来の学校の活動の中でか、職業についてからか――育ってきたものです。

「だから学校教育も昔のままでいいじゃないか」
 それが基本的な私の感じ方です。社会科や理科や音楽や図工の時間を減らして無理やり総合的な学習の時間やら外国語活動やらをつっこんで、カリキュラムをギシギシにしてまでやることではないだろう――。すると返ってくるのは当然、出発点にあった言葉です。
「それでは21世紀のグローバル社会は生き残れない」


【必要のない者もいる】

 私の教え子には居酒屋の経営で頑張っている子がいます。喫茶店の経営者もいます。教員になった子も多少いて、医者になった子もいます。専業主婦がいます、自動車のディーラーがいて、不動産屋に勤めている子もいます。
 多くはサラリーマンで実際にどんな仕事をしているのかは知りませんが、それぞれ頑張っています。
 私は、この子たちと「21世のグローバル社会」がどう関わっているのか、それが分からないのです。

 21世紀も五分の一が終わりましたからそろそろ今世紀の様相が見えて来そうなものですが、総合的な学習の時間やアクティブ・ラーニングを経験した子どもたちがどれくらい生き生きと活躍し、そうでなかった子たちが割を食って悲しい思いをしているのか、「生き残れなくなっている」のか、それが見えて来ません。
「もっと英語を勉強して自由に操れるようになっていたらどんなに良かったのか」と臍を噛んでいる子がどれくらいいるのか、「小学校時代からプログラミングを勉強していたらどんなに幸せだったのか」と唇を噛みしめている子が何人にいるのか、分かってきません。そんな子はほとんどいないように感じます。


【一人のジョブズを育てるために、みんなで耐える】

 そして私は思うのです。
 これからの小学生が英語やプログラミングを学ばなければならないのは、その子たち全員に英語力やプログラミング的思考が必要だからではない、この国からマーク・ザッカーバーグビル・ゲイツスティーブ・ジョブズを出すためには、みんなが頑張らなくてはならないのだと。

 この国から北島康介を始めとする偉大なメダリストが次々と輩出された陰に日本中のスイミングスクールに通うたくさんの子どもたち頑張りがあったように、田中将大ダルビッシュ・有やイチローが大リーグで活躍できるのは小さなころから土にまみれてボールを追い、高校では甲子園をめざして超人的な努力をした何百万という無名の選手たちがいたからであるように、英語やプログラミングで大成できる者が砂漠の砂の一粒ほどであっても、みんなで頑張らなくてはこの国の発展はない、それが21世紀の日本のためだ――。

 私が不安になったり苛立ったりするのはそのためです。
 総合的な学習の時間も外国語教育も、プログラミングもアクティブ・ラーニングも、中学校以上で行うのはかまいません。中学校も高校もいろいろなものを試し、いろいろなことを諦める場です。プログラミングを始めてみたものの結局ダメだった、自分の人生には必要なさそうだでかまいません。英語でつまずいても、せいぜいが中学3年間、長くても中高6年間の我慢で済みます。
 しかし小学校はそういう場ではないでしょう。
 そこは基本的人権を保障する場、
「健康的で文化的な最低限度の生活」が営めるよう力をつける場です。プログラミング的思考も英語も「最低限度の生活」を送る上では必要ないじゃないですか。

 困ったことに、学校の総合的な学習の時間も外国語活動もプログラミング学習も非常にうまくできていて、とても面白いのです。子どもたちにアンケートを取ればいずれも上位に食い込む人気科目になります。
 「何でもハイハイと先生の言う通りできる」ような優秀な子は、どんな世界も学びの場とできますから未来のスティーブ・ジョブズはそこで着々と力をつけていくでしょう。しかし何人もの普通の子が、そこで遊んでおしまいにしてしまいます。

 私はおそらく一人のジョブズも担任していません。みんな普通の子でした。
 だから切なく、腹も立つのです。

(この稿、終了)