カイト・カフェ

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「ウサギは気体である」~死にゆく小さな者の記録④

 ミルク(ミースケ)の死は、私の心の中に小さな痛みを残した。
 これまでのどの生き物も生み出さなかったものだった。
 ウサギは気体である。
 なくなって初めて分かることもある。
 という話。(写真:SuperT)

【亡きをともに悲しむ】

 ウサギのミースケの火葬をした18日の午後、私は近くの、あるお宅を訪ねることにしました。以前、庭で垂れ耳ウサギを遊ばせていた若い母親と保育園くらいの女の子のいる家です。
 少し驚いたのですが、インターフォンを鳴らすと出てきた声の主は男性でした。
「つかぬことを伺いますが、以前こちらを通りかかった際、ウサギと遊んでいるのを拝見しました。そのときちょっとお声がけしたんですけど、いまでも飼っていらっしゃいます?」
 すると男性は、
「いいえ、いまは飼っていないんです」
「そうですか、実は私の飼っているウサギが先日死んでしまって、それで余ったエサやペットシートをもらってもらえないかと思って、それできたんですが、そういうことでしたら仕方ありません。すみません、失礼します」
 そう言って立ち去ろうとすると運転席に戻る間もなく、玄関のドアが開いて若い奥さんが飛び出してきて、続いてご主人が小さな子を抱いたまま顔を出します。以前見た子はしばらくしてゆっくりと出てきます。
「ウサギ、どうしたのです?」
と、私の方から先に声をかけます。
「まだ若くて弱かったみたいで、朝、私たちが目を覚ましたらいつの間にか死んでしまっていて――」
 第一発見者はご主人だったようです。
「どのくらい飼っておられたんです?」
「2年くらいだったか・・・」
「それは短くて切なかったですね。ウチのは11年で十分面倒を見ましたが、突然死なれると辛いですよね」
 それから二言三言、どう話したか忘れましたが、最後はあちらが、
「気にかけてくださってありがとうございます」
とおっしゃって、それで何となく切り上げ、別れました。

 わざわざ顔を出して話をするほどのこともなかったのですが、ともに一緒に暮らす命を失った者どうし、お互いを確認する必要があったのかもしれません。両方のウサギが生きているうちにもっと話をしておけばよかったと思いました。

【心がさざめく】

 ミースケの死は私の心に意外なさざ波を立てました。
 一緒に飼い始めたココアが死んだときもカフェが死んだときも、それどころか実の父が死んだ時ですら心がざわめいて泣きそうになるということはなかったのに、ミースケ(ミルク)の火葬のとき、炉の扉が閉じられた瞬間、心の底から浮かび上がってくるものがあって涙腺を圧迫しそうになったのです。これまで感じたことのないものでした。
 前の二羽のときはまだウサギが残っていたのに今度はいないということ、あるいは私自身が高齢ですのでもうペットを飼うことはないだろうということ、それも“さざ波”の原因なのかもしれません。あるいはただ単に齢を取って涙もろくなっているということなのかもしれません。
 しかしそれにしても、「私らしからぬ」ことです。

 永世飼育当番みたいなもので面倒はよく見ましたが、特に可愛かったわけでもありません。近所の他人の子でも人間の子の方が何千倍も可愛いと思っています。
 もちろんまったく可愛くないわけでもなく、寝転がってテレビを見ていると近づいて来て頭を低くすることがあるので、そんなときは耳の付け根から背中・腰へと繰り返し撫でてやります。ミースケはいつも気持ちよさそうに撫でられていましたが、そんな時ですら私の心の中にある大部分は何か義務的なものです。「この地上にある限り、より強き者は弱き者を扶けなければならない」、そう信じているところがあります。
 ただそんな私でも、今回はちょっぴり泣きそうになったのです。

【ウサギは気体である】

 死んで5日と経たっていないのに一緒にいた時期のことがよく思い出せないのは、そうした生来の、私自身の冷淡さのためかとも思っていましたが、よくよく考えたらウサギという存在自体が家の中で希薄なのでした。

 朝は一声かけてトイレの掃除をし、一日分のエサを整えてあげればそれで「お世話」は終わり。たった5分のことです。
 個体差や年齢のせいもあるかもしれませんが、ミースケは一日の大半をカーテンの向こうで過ごし、ときどき出て来てはエサと排せつの用を足してまたカーテンへと戻ってしまいます。撫でてもらいに来るのは一週間に一度か二度、きわめて珍しいことです。
 芸をするわけではありません。駆け回るわけでもありません。薄明薄暮性ですからもしかしたら私たちの目覚める前に走り回っているのかもしれませんが分からないところです。いまから考えればほんとうに張り合いのない、つまらないペットでした。
 
 ただそれにもかかわらず妙な喪失感は今も続いています。
 ケージは日曜日に片付けましたが、それまでの数日、一日に何度も中を確認してそのたびに死んでしまったことを思い出したのですが、それによって生きているころも一日に何度も、無意識のうちにエサやトイレを気にしていた自分がいたことに気づきます。そんなに気にしているつもりもなかったのですが――。
 
 日中、コンピュータの前に座っていると背後で何らかの音がすることがあります。それはストーブの上に置いたヤカンの中で湯の動く音だったり、遠くでトラックが立てた音だったり、あるいは風のつくり出す音だったり――しかしときどき、”音“は幽かに左右に振れたりします。ウサギの動く音とだと頭が誤認しているのです。
 
 「ネコは液体である」というCMが話題になっていますが、ウサギは気体ですから生きているうちは何も感じず、いなくなって初めて気づくことも多いのかもしれません。

(この稿、終了)