カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「そして灯は消えた」~死にゆく小さな者の記録③

 生き物の死は急速に進む。
 歩けなくなったミースケはやがて食べることもやめて死での準備をする。
 私たちも心構えするときだ。
 優しいおまえの、死ぬのを見に行こう。
 という話。(写真:SuperT)

【ミースケはついに動かなくなる】

 1月の末からトイレが分からなくなってしまったミースケは行動を制限され、夜はケージの中で、日中は縁側に特設した運動場で過ごすようになりました。しかしそれから2週間ほどすると前足のツッパリが利かなくなったのか腰が抜けたのか、床に顎だけをつけた姿勢でひたすら前に進んでしまう不思議な歩き方を始め、自分でもコントロールに苦しんでいる様子がありました。前へ進んで結局は柵に衝突するかっこうで止まり、鉄格子に顔を押しあてたままじっとしている時間が長くなります。
 そうした切ない様子は今月15日(2023年)のブログで紹介しました。

kite-cafe.hatenablog.com

 その記事は前日の14日午後から書き始めたのですが、その段階ではまだ死ぬのはずっと先のような気がしていたのです。今月末には日帰りで東京に行く予定があるのですが、それに行こうか行くまいか迷っていたほどです。ところが記事を書き終わった夕方くらいから、ミースケの様子は急速に悪くなっていったのです。

 陽が落ちたあとで縁側の運動場から拾い上げ、身体を拭いてニンジンを食べさせようとしたのですが、それまで身体はぐったりしてもエサだけは忙しく食べていたミースケが、ひとくちふたくち齧ったところからさっぱり先に進まなくなってしまったのです。きわめつきの食いしん坊が食べられないのですからただ事ではありません。私は仕方なくミースケをケージに戻すと、その口元のいつもの場所に細切りにしたニンジンを置いておきました。
 
 2時間後、ニンジンの大部分はなくなっていました。その間、ガサゴソと何かの動く音がしていましたから、ケージの中を思うに任せない動きのまま、何回か移動して食べたのかもしれません。もっとも私が確認したときは、すでに腰から下は横座りのように足を延ばし、ケージの端に頭を当てて浅い息をしているだけでした。切ないことに左の頬を下にして、首を横にして寝ています。
 ウサギはどんなにリラックスしていても喉を宙に曝す形で横たわることはありません。首だけは起こして、横倒しの形で寝ることはないのです。私はさらにしばらく様子を見ながら、もう動くことはないと分かったのでケージから出し、床に広げたペットシーツの上に乗せ、あとは様子を見ることとしました。

【別れの朝】

 ミースケはそのまま一昼夜半を過ごしました。
 同じ側だけ下にしているのは辛いだろうと寝返りを打たせると、最初嫌がっていたのが15日になるとそれもしなくなり、体温が下がったためか身体をぬるま湯で拭いてやってもなかなか乾かず、見かけはさらにみすぼらしくなって行きました。

 15日の朝、妻はずいぶんと未練を残したまま仕事に行きました。しかしミースケが妻のいない間に死ぬことはないと私は思っていました。世話をするのはもっぱら私でかけた時間も圧倒的に長かったはずなのに、妻がテレビの前でウツラウツラと寝ていると後ろからツンツンつついてエサをねだったり、朝は起きてきた妻の後追いをしたりと、むしろ妻の方にこそ懐いていたからです。そうでなくても先に死んだココアやカフェは、私が留守の時間に妻のそばで死んだのです。今度もそうなるに決まっている、と私は思っていました。
 
 15日は朝からずっと一緒にいました。日向ぼっこの好きなミースケの身体を、わずかな日差しを追って移動させながら過ごしたのです。その間もずっとミースケは早く浅い息を繰り返し、口元とヒゲを動かすことで生存を知らせていました。もう命の灯は風前であることは分かっていましたが、いつまで続くか分かりません。
 その夜は私たちが眠る前も同じ息をしていました。しかし翌16日、私たちが目覚めて居間に行くと、ミースケはすでに息をしていませんでした。身体にはまだぬくもりがありました。

【納棺から見送りの時へ】

 朝から忙しい妻に代わって、納棺も私の仕事です。
 尻周りに固くこびりついたフンを30分もほぐしながら洗い流し、シャンプーをすると1時間半もかけてドライヤーで乾かしました。細い体毛の間に入った水分はなかなか抜けて行かないのです。瞬く間に死後硬直が進み、身体を丸くつくるのが難しくなりかけました。それから妻がつくった段ボールのお棺に入れました。
 
 市の葬祭センターに電話を入れると火葬は二日後まで空いていないというので、18日の午前中に予約を入れます。そして16日~17日の二日間を、私たちはウサギの死から目を背け、何事もなかったこのように過ごしました。

 そして18日土曜日の朝、私たちは一緒に、小さな命の燃やされる場所へ向かったのです。

(この稿、続く)