カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「私の人生には課題が必要だ」~誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい②

 レーゾンデトールという言葉があった。
 人はその「存在理由」がないと生きていけないという。
 しかしどうだろう。
 ただ生きて、そして死んでいくだけではいけないのだろうか?
 という話。(写真:フォトAC)

【私にはテーマが必要だ】 

 昨年の暮れ、元教え子の女の子二人と夕食をともにしました。女の子と言っても私にとってはそうだというだけで、二人とも40歳代半ばですから世間的にはもう立派なおばさんです。
 ひとりは結婚して二人の子の子育てに忙しい美容師で、もう一人は外資系の企業に勤める外見的にはいちおうキャリアウーマンという感じの子です。
 前者の子と会うのは5年ぶり。しかしSNS上でもやり取りがあるのでさして新鮮なことはありません。それに対して後者の子とは成人式以来四半世紀ぶりですから積もる話も出てきます。中学校を卒業してから今日までのことを時間を追って丁寧に話し、とちゅう何度も寄り道をして現在に至り、そこで出てきたのが、
「私にはテーマ(課題)が必要だ」
という話です。

「(いっしょに来た)Sちゃんには旦那さんがいて子どもがいて、美容師という立派な仕事がある。死ぬとき、または死んだ後で神様の前に立った時、『お前は現世で何をしてきた?』と訊かれたら、そう答えればいい。『私は夫を支え、二人の子を育て、たくさんの人の髪を整えて幸せにしてきました』って。けれど私には何もない。
 外資系でいい給料はもらっているけど、大した仕事をしているわけではないからいつクビになるか分からない、潰しも利かない。結婚のあてはなく、年齢を考えればこれから親になることもなさそうだから誰かに、『あなたは何をしてきた人なの?』とか『今までどうして独身で来たの?』と訊かれても、いまのところ答えようがない。だから何のために生きて来たのか、何のために生きているのかという課題がなくちゃいけない」

【レーゾンデトール】

 すでに死語となっているかもしれませんが、私は若いころに習った「レーゾンデトール(raison d'?tre)」という言葉を思い出しました。英語で言えば“reason for being”となるフランス語で、日本語では「存在理由」あるいは「存在意義」と訳され、私が学生だった半世紀ほど前には流行っていた哲学用語です。
「人間は地上で唯一、レーゾンデトールを熱望する存在である」といった使い方をしました。自分探しに熱中した世代ですから必然的にこの言葉に出会うのです。

 「レーゾンデトール」は「他人から見たものではなく、あくまで自分が求める『存在理由』『存在価値』をさす」と説明されましたが、客観的評価からあまりにもかけ離れた自己評価は独りよがりに陥りかねません。哲学的にはケリの着いている話ですが、現実的には程度の問題であって、他者がどう見るかはまったく気にしなくていいわけではありません。

 教え子の言う「私にはテーマ(課題)が必要」もそういう意味です。
「あんた、結婚もしない、子どももつくらないで、人生に何を残すつもりなの?」
という現代では十分にセクハラで下品な問いに、それでも答えておきたいというのです。私はそれを鼻で笑うことはできません。

【どこかの片隅でもいいから認められていたい】

 「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」は、おそらく幼稚で原始的な欲望です。だから4・5歳~小学校低学年くらいの子どもは誉められたり感謝されたりするためなら大抵のことはします。誉め育てが一番効くのもこの時期ですし、だから危険なのもこの時期です。さらに言えば、すごいと言われるために平気でうそをつくのもこのころです。

 ところが小学校も中学年以降になると限界が見えてきます。性格がいい、お手伝いができる程度では誉めてもらえず、勉強ができることが褒められるための条件、しかもかなり大きな比重を占めてくるからです。これは誰でもがんばればなんとかなりというものではなく、嘘で誤魔化しきれるものでもありません。
 そこで一部の子は勉強の世界を諦め、特別な部門での一流を目指します。部活で英雄になれる子はそれもよし、しかしそれもかなわず、タバコを吸うとか目立つ形で校則を破るとか、学校をさぼるとか、そういったことを激しく賞賛するグループの中で頂点に立とうとする子も出てくるのです。
「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」にはそれだけの力があるのです。

 しかしその力は、すべての人々を虜にするものではありません。多くは誉められたり感謝されたりするよりも別の場所に喜びを見出していきます。

【長い長い日々を生き抜きましょう】

 かつての教え子が「私にはテーマ(課題)が必要だ」と言ったとき、私は何も言いませんでした。深く頷く気持ちがあるのと同時に、幽かな違和感もあったからです。
 人生にこれといって誇るべきものがなくてもかまわないじゃないか、レーゾンデトールなんてどうでもいい、生きていくのに理由はいらないし資格も必要ない。ただ生きていくことが大事、ただ前に進むことだけが大事といった気持ちです。
「生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも、働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ」(チェーホフ『ワーニャ伯父さん』)
 それでいいじゃないか、という気持ちも、私にはあるのです。

(この稿、続く)