カイト・カフェ

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「人生のピーク」~教え子の同窓会に招かれて②

 四半世紀前に卒業させた教え子の同窓会に招かれた話をしました。彼らも 40歳になっています。
 実はこの招待、内心とても気の重い面がありました。それは私の記憶力に関わる問題です。
 相貌失認という障害があるそうですが、とにかく人の顔を覚えるのが苦手。正確に言うと顔と名前が結びつかないのです。声をかけられて話をしている間じゅう相手が分からず、内容は上の空のまま必死に人物を探しているということがしょっちゅうなのです。

 いったい教師というのは厄介な仕事で、クラスに教え子は30数人。ところが保護者はその2倍、祖父母となると4倍もいるのです。田舎ではひとりの子どもを覚えるときに付随する6人も同時に覚えなくてはなりません。それは私の能力をはるかに超えています。
 同窓会はその意味で最悪で、ことにこの学年は10年ごとに確認しているだけに、今さら分からないとは言いにくい、しかし分からない時はやはり分からない、それが憂鬱の原因です。

 ところが今回の同窓会は、参加してみると20歳の時、30歳のころより遥かによく分かるのです。最初の一瞬は分からないのですが、話しているうちに幼顔がどんどん透けてくる、その子にまつわるエピソードが浮かんでくる――。それは前回、前々回にはない、今回だけのことでした。思うに、何かが抜けて、なにかが加わったのです。

 もう一つ感じたのは、二十歳のころ30歳のころに比べてどの子もとても美しいということです。特に子どものころ影が薄く目立たなかった子、おとなしく控えめだった子、何かの理由で表情の暗かった子、そういう子たちが実に自由でのびやかで信じられないほど美しい。それが女子だったりすると「この子、こんなに美人だったっけ」ということになるのですが、幼顔を思い浮かべると確かにその子で、それがそのまま美しく生まれ変わったようなのです。

 ほとんどの子が小学生や中学生の父親や母親、社会的にもいちばん仕事のできる時期です。世の中の大抵のことは放っておいても何とかできる、その程度の社会体験は経てきている年齢でもあります。もしかしたらそういった自信、不安のなさが、その子たちを輝かせているかもしれません。自信がつくともう背伸びする必要もない、表面を飾る必要もない、そのままで生きていられる。
 卒業後四半世紀もたった生徒たちに幼顔が透けるのも、飾ることがなくなって素が垣間見えたからなのかもしれません。ここが人生のピークなのです。

 その夜はしこたま酔って、2時間余りもかかる電車道を幸せな気分で帰ってきました。
 10年後、4度目の同窓会が開かれてそのときも呼んでもらえるかもしれません。さらにその10年後、彼らが今の私の年齢になって5度目の連絡を受けたとき、もしかしたら私はその要請に応えられないかもしれません。
 しかし私自身が最も生き生きと仕事していた3年間をともに過ごしてくれたこの子たちが、私の年になってもいきいきと生きてくれているならそれで十分に満足なのだと、雪の舞う車窓からの夜景を見ながら、ゆらゆらと揺れながら思ったものでした。