「きっとあの子たちは生きていけない」〜2030年の世界は

 f:id:kite-cafe:20181215220805j:plain(サルヴァトル・ローザ『魔女』)

【恐怖産業としての教育】

 私たちが「勉強」と呼んでいるものを、漢字の原産国である中国では「学習」と言います。読んで字のごとく「学んで習うこと」です。
 では「勉強」とは何のことかというと、これも読んで字のごとく「勉(つと)めて強(し)いる」、つまり強制されていやいや行うという意味なのです(だから昔の八百屋さんは値引きすることを「じゃあ勉強しておきやしょう」などと言った)。
 きっと奈良時代の留学僧あたりが、「学習」することを陰で「強制だ(勉強だ)」と言い続けたことから、この言い方が定着したのでしょう。好奇心に導かれて学ぶ人や、向上心に引き寄せられて学習するごく一部の人々を除いて、学ぶことは常に強制だったわけです。

 近年で言えば、福沢諭吉の「学問ノ ススメ」によって「これからの時代、学問がなければ豊かな暮らしはできない」と脅され、昭和の高度成長期には「親と同じ暮らしをしたければ、親を上回る学歴がなければならない」と脅され(それは事実だった)、以降は「大学くらい出ていないとロクな職業には就けない」と脅かされて、私たちは学習してきたのです。 

【現代の恐怖】

 学習は常に恐怖に押されて行う活動で、現在は次のように脅されています。

 教育を通じて、解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解ける力を育むだけでは不十分である。これからの子供たちには、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくことが求められる。

 これは文科省中央教育審議会初等中等教育分科会(第100回)配布資料(平成27年9月14日)「2030年の社会と子供たちの未来」の一部で、後に『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)』に生かされ、さらに平成29年3月公示の新学習指導要領につながったものです。
 新学習指導要領の中には、随所にこれを意識した表現があります。 
 

【2030年の世界】

 こうした判断の前提となる2030年の未来予測(それはわずか12年後の世界なのですが)は次のように表現されます。
 2030年には、少子高齢化が更に進行し、65歳以上の割合は総人口の3割に達する一方、生産年齢人口は総人口の約58%にまで減少すると見込まれている。同年には、世界のGDPに占める日本の割合は、現在の5.8%から3.4%にまで低下するとの予測もあり、日本の国際的な存在感の低下も懸念されている。
 また、グローバル化や情報化が進展する社会の中では、多様な主体が速いスピードで相互に影響し合い、一つの出来事が広範囲かつ複雑に伝播し、先を見通すことがますます難しくなってきている。子供たちが将来就くことになる職業の在り方についても、技術革新等の影響により大きく変化することになると予測されている。子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就くとの予測や、今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高いなどの予測がある。また、2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達するという指摘もある。このような中で、グローバル化、情報化、技術革新等といった変化は、どのようなキャリアを選択するかにかかわらず、全ての子供たちの生き方に影響するものであるという認識に立った検討が必要である。予測できない未来に対応するためには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが重要である。
 
 

【私の見てきた子たち】

 深いため息の出るような話です。とてもではありませんが私は生きていけない。
 もちろん私なんぞはいい歳ですから生きていけなくてけっこうなのですが、私の子どもや孫や、教え子やその子どもたちが生きていけないのは困りますし、おそらくいま挙げた人々の大半は「生きていけない」範疇の人々なのです。なぜなら長い教員生活の中でおそらく4000人くらいの子どもたちと接してきましたが、
社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していく
なんてことのできそうな子は一握りどころか一つまみもいなかったし、そうした子どもを教育によって育てられるとはとても思えないからです。

 私が見てきたのは私と同じように、先生や大人の教えてくれることをきちんとできるように、大人の期待に応えられるようにと頑張る子どもたちです。
 よく「なんでもハイハイと、先生の言う通りできるだけではダメだ」などと言いますが、とりあえず「先生の言う通り」のことができない。
 漢字もすぐに忘れてしまう、数学もちょっと複雑な応用問題だと分からなくなてしまう、生徒会の運営もあちこち教えてもらわないとできないし、掃除や給食当番だって“主体的に”は取り組めない。そんな子たちが、“予測のできない未来”に生きなければならないのです。

 無理ですよね。

 でも生きて行けないからといって、全員死ぬわけにもいかない。そうなると「未来に生きられない子どもたちの生存のしかた」についても考えておかなくてはなりません。

 私には2歳8ヶ月になる孫のハーヴがいますが、これまでの基準で言えば「普通の子」でしかありません。つまり明らかに「予測不能な未来に生きる子」ではないのです。
 ですからせめてこの子の将来だけは考えておかなければなりません。それがジジの務めでしょうから。 

                    (この稿、続く)