「何のために生きるのか」~ある哲学者の寓話を思い出して

 俳優でタレントの渡辺徹さんが亡くなった。
 61歳、これもまた若すぎる死だ。
 しかし考え直してみよう、
 これもまた新しい人生の始まりなのかもしれないのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【若すぎるもう一人の死】

 俳優でタレントの渡辺徹さんが亡くなり、昨日(12月5日)、妻の榊原郁恵さんと息子の裕太くんの記者会見が行われたそうです。二人とも涙を見せず、気丈な対応をされたようです。

 61歳。昨日お話しした私の元同僚とほぼ同じ年齢ですが、私の同僚が長く病んだのに対して、渡辺さんは今回に限って、むしろ呆気ないほどの亡くなり方でした。20日に腹痛を訴えて入院し、その際に郁恵さんと言葉を交わしたのを最後に、意識もなくなり、28日には亡くなってしまったのです。
 細菌性胃腸炎という最初の病名も(もちろん間違ってはいないのですが)、結果の重大性を考えるとチグハグで、神様も酷なことをなさると恨めしく思った人もいたのかもしれません。
 若いころから何度も厄介な病気を繰り返してきた人でした。だから家族は受け入れやすかったのか、逆に今度もうまく行くと思い込んで失意も大きかったのか、私には分からないところです。
 
 しかし二日続きで自分より若い命の亡くなったことを思うと、私もだいぶ気が滅入ります。自分の明日を考えてのことではありません。とにかく自分より若い人間に死なれるのが嫌なのです。

【ある哲学者の話】

 私はここで死に関する小話をひとつ思い出します。ずっと昔に覚えた話です。(*1
「ある高名な哲学者が亡くなります。無神論者として有名な人でしたが、彼にとっては不都合なことに、死んでみると死後の世界も神の裁きもあったのです。
 無神論を多く広めた罪によって、彼は裁判で、長く、長く、とてつもなく長い道のりを歩かなければならない罰を受けます。そして道の出発点に立たされるのですが、ここで思いがけない事態が発生します。哲学者が罰を受けることを拒否し、その場に寝転んでしまったのです」 
 さて、そのあとどうなったのか・・・私はこの結末がとても好きなのです。
「長い時間――それはもうほんとうに長い長い時間、哲学者はその場に寝転がっていたのですが、やがてむっくりと起き上がると少し考えて、それから罰として与えられた長い道のりを、ひとり、ゆっくりと歩み始めたのです」
 
 私は若いころ、これを滑稽話として記憶に留め、機会があれば人に話して関心を誘っていました。ところが齢をとってからこれが別の意味をもって訪れたのです。それは哲学者が生き直したということです。蘇りとも、転生と言ってもいい話です。
 とりあえずこれといった目的も理由もなく、ただ歩いて行かなくてはならない、先には何かあるかもしれないが何もないかもしれない、それが人生だからです。

【何のために生きるのか】

 何のために生きるのか――それは繰り返し問われてきた哲学的テーマです。なぜこれが難問としていつまでも答えが出ないかというと、おそらく答えがないか、答えが山ほどあって一つに絞れないからだ思います。生まれたばかりの赤ん坊には答えがない、ある程度いきてきた人間にはそれぞれに答えがある、そういうことです。

 哲学者は今まさに歩き始めた赤ん坊です。何のために歩くのか、理由はないのですがほかにしようがない。寝そべっていてもいいのですがそれではあまりにも退屈だ、だから歩き出す、その程度のことです。拗ねて横になっていた哲学者が歩き始めたのも、倦んだこともるかもしれませんが基本的にそれが天命であることを――罰ではなく、すべての人に訪れる普通のことだと気づいたからでしょう。

 私の元同僚も渡辺徹さんも、前世を忘れ、いままさにそんなふうに歩き始めたところなのかもしれません。 

*1:この話をどこで聞いたのか、読んだのか、どうしても思い出せなくて困っています。ドストエフスキーの長編の、どこかに差し込まれた寓話だという記憶もあって、ずいぶん探したのですが見つかりません。ご存知の方がいたらお教えください。