カイト・カフェ

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「『運』の掴み方」~人生は結局「運」のある者の勝ち!

 金と美貌と才能と運、この中たった一つ自由に手に入るとしたら何がいいか―
 これはもちろん「運」に決まっています。ほかの三つはどれがあっても(あるいは3つすべて手に入れたとしても)、「運」がなければまったく話になりません。それに金はともかく、美貌と才能は生まれたときに大枠が決まっていますから、動かしようがないのです。その点「運」はもっとも制御しやすいものと言えます。
 そしてそうなると、あとは「運をどう掴むか」という話になります。

 不思議なことに―不思議でもないかな?―私は年齢を重ねるごとに運命論者になっています。衰えて、運命に逆らい切り開くだけの気力・体力がなくなったという面もありますが、それよりも不思議な暗合、何とも説明できない“流れ”といったものを数多く経験してくるからです。
 たとえば電化製品―。昨年、私の家は冷蔵庫と洗濯機とテレビとブルーレイプレーヤーとコンピュータ1台をそれぞれ買い換えました。連鎖的に全部壊れたからです。購入時期の全く異なるこれらの機器が一斉に故障するなんてあり得ます? 
 あるいは一昨年、副校長先生が申込みを忘れてしまったばかりに、私は毎年楽しみにしている研究会に参加できませんでした。あの副校長先生がそんなミスをするなんて、ほとんどありえないことです。ところがその研究会が行われる3日前に父が亡くなり、研究会当日は葬儀の日でした。きちんと申し込みがなされていたら、宿泊を含めた参加費1万5000円がフイになるところでした。
 そんな偶然、そうあるものではありません。

 普通に街なかを車で走っている最中、すべての信号が私のために青なってくれるようなときもあれば、いちいち赤で、しかも信号機のないところでは入れ代わり立ち代わり低速車が前を押さえて先に進ませてくれない―そんなこともあります。
 後者の場合、若いころは「マズイな。よほど大きな組織が動いて邪魔してる」などと冗談を言ったものですが、最近は「何か特別な力が私を前に進ませないようにしている」と本気で思うようになっています。前に進ませずに何をしているのかというと、事故にあわないよう守ってくれていると思うのです。たぶん私の「運」がそうしているのです。

「『運』の掴み方」のひとつはそういうことだと私は思います。今自分の置かれている状況やあり方をポジティブにとらえられている限り、「運」は失われないのです。

「『運』の掴み方」のもう一つの方法は、(運命論者だと当然そういう言い方になりますが)「運命」に逆らわないということです。しかしそれは黙って運命に従い、何もするなという意味ではありません。

「運命」というのは人生を歩く“私”を左右から挟んで一定方向に進めようというある種の力です。しかしそれはがんじがらめに1mmの隙もなく決められた方向に動かそうというものでもありません。何しろ歩いているのは“私”ですから、“私”の「次の一歩」を完全に支配することはできないのです。もちろん「運命」を振り切ったり殴り倒すことは不可能ですが、「運命」に挟まれて歩きながら、長い時間をかけてゆっくりと“私”の行きたい方向へ徐々に力を加えていくことはできる、そんなふうに思うのです。

 具体的に言えばこんなぐあいです。
 転勤によって次に行く学校を自分で決めることはできません。そこに行くこともそこで出会う状況や人間関係も自分で選び取ることはできません。しかし長い時間をかけて、徐々に自分に都合の良いものに変えていくことはできる、ということです。
 もちろん運命に逆らい、赴任拒否や退職という選択もあり得ます。しかし経験からいって、運命に逆らったり運命を断ち切ろうとしても、それでうまく人生を乗り切った人を私は見たことがありません。もしいるにしても、それは稀有な才能やエネルギーを持った人だけです(と、運命論者の私は思います)。