「教育の質」を問題にする人たちは、
もしかしたらとんでもなく高いレベルを望んでいるかもしれない。
しかし日本の学校教育は、そこまですごい教師を必要としていない。
ただ普通に、子どもたちの問いに応えられればいいのだ。
という話。(写真:フォトAC)
Yahooニュースに転載された月刊教員養成セミナーの記事について、昨日に引き続き書いています。
【謝罪:記事の読み取りを誤りました】
Yahooニュースに転載された月刊教員養成セミナーの記事を話題にしたことは、間違いだったとつくづく後悔しています。やはりロクな内容ではありませんでした。
何ともピンとこない雰囲気があってもう一度読み直したら、記事のいう「教養」は「幅広い知識・見識」といった一般的なものでなく、教育における高い専門性と深い知識・見識、そういうものだったのです。
だから特別免許や臨時免許の乱発による質の低下を憂い、教員のほとんどが院卒でないことを問題とし、採用試験の倍率の下がったことを嘆くのです。とにかく教員になるために学生たちが目の色を変えて勉強するような国にしなくてはならない。そのためには院卒の教員の給与を1・2倍くらいに上げて、高給につられた受験者から上澄みだけを採用しろといった話になるのです。しかしその考えはいかにも素人くさい(あ、素人じゃないか)。
この記事には「教師の質」の低下を心配する人たちの考え方が集約されていて、だからまるっきり役に立たないわけでもありません。逆の意味で十分、勉強になりました。
しかしそれにしても「教師の質」を問題にする人たちは、何が不安なのでしょう?
【そこまですごい人が教師になることはない】
「教養のある教師は子どもに信頼され、尊敬されます。逆に教養のない教師は軽蔑される」
この場合の「教養」の高い専門性と知識・見識なのですが、先生よりも知能指数の高い生徒が続々入ってくるようなトップ・エリート高校ならまだしも、普通の小中学校・高校だとそこまで高い専門性は必要ありません。
文科省の言うようなオリンピックのメダリストや大学教授は、他に活躍して日本のために役立つ場がいくらでもあります。あえて学校などという場に身を置くことはないですし、例えば羽生弓弦君が体育の教師になったとしても、水泳や柔道の指導は別に学んでもらうしかありません。好きでなるなら仕方ないにしても、学校はそんな立派な人たちの来るところではないと思うのです。
大学院で特別な研究をしてきた人だって、教師として実力が高いとか授業力がついているわけでもありませんから教職に就いたら一から出直しです。しかも大卒より2年遅れの就労ですから最終的な在勤年数も2年短くなります。
65歳定年で考えると、大卒が勤続年数43年になるのに対して院卒は41年しか働けないわけで、42年目と43年目の高給がもらえないのです。退職金にも影響するでしょう。院を出たら教員にはならず、もっと高給な仕事に就くべきです。
学校の方は心配ありません。教員免許は大卒・短大卒以上でしか手に入らないものですし、教育実習をした上で採用試験も受けた人だけが教職に就ける職です。倍率が1倍台になって「誰もが教師になれる」ように見えても、実際にはそこまでに関門がいくつもあるわけです。
それに、これだけ教職がブラックだと言われ、他にいくらでも就職口のある時代に、敢えて教員になろうという人たち、いい先生になるに決まっているじゃないですか.
【知らないこと以外は何でも知っている教員になる】
教養があれば子どもに信頼されるとも思いませんが、ないよりはあった方がいいと私も思います。子どもと長時間、しかも深くかかわることのできる大人はそれほど多くなく、教師は数少ないそのひとりです。子どもが豊かな成長を遂げる上で、接する人々が立派で教養(一般的な意味で)のあるに越したことはありません。
「ウクライナでなんで戦争やってるの?」「プーチンって何?」「ゼロコロナってどういうこと?」「ロケット、失敗しちゃったよね、どうして?」「ヤクルトってどうしてあんなに強いの?」
特に小さな子どもはいろいろなことを質問します。そのひとつひとつは思いつきですからすべてに十分な説明をする必要はありません。しかし「知らない」「分からない」ばかりでは大人としての沽券にかかわりますし、「調べておきましょう」ではすぐに宿題山積みで行き詰まります。「自分で調べてごらん」も無理な場合がほとんどです。
やはりここは簡単に、しかも的確に答えてあげるべきでしょう。「先生は知らないこと以外は何でも知っているよ」といえばたいていの子どもは喜び、小学校の低学年だと心から感心してくれます。
しかし世の中、たいていのことは短く簡単に説明するのが困難なことばかり。日ごろから知識を増やし、考えをめぐらしていなくてはできないことです。しかし時間はない。
どうしたらいいのでしょう?
【その上での教養の高め方】
これは先週お話したばかりのことですが、私は朝の会で必ずひとつ、自分の心に宿った話をすることを心掛けました。心掛けというよりは義務です。
子どもが穏やかで素直に話に耳を傾けてくれるのは朝の会だけです。午後なんてまったくダメで、小学生は早く帰って遊びたいし中学生は部活のことで頭がいっぱい。話を聞くなんてとてもできません。
朝の清々しい空気の中で、半分寝ぼけて反発心の起こりにくい頭の中に、そっと言葉を忍ばせていく。催眠状態と同じですから案外すんなりと入って行きそうな気もします。私はそうしました。
その習慣の成れの果てがこのブログです。ですからもう40年間も、「明日は何を話すか(書こうか)」といつも頭の隅で考えている日々が続いています。今やボケ防止でもありますが――。