シノマはかつての私の教え子で二十代後半、優しい夫を持ち豊かな生活を送る才能あふれる女性です。
昨日そう書きました。
採用試験を一発で合格して今年で5年目。ただし途中で産育休を2年取りましたから実質的な教員経験は3年です。
【最も優秀な教師】
子どものころからとてもまじめな努力家で、素直で、前向きな子でした。私の息子のアキュラより年上ですが、いつかシノマのような子が(ほんとうはシノマ本人が)我が家の嫁に来てくれたらいいなと思った時期もありましたが、年を経るにしたがって人格に差が開きすぎてしまい、とてもではありませんがこちらから言い出せる状況ではなくなってしまいました。そして気がつくとアキュラが卒業する前に嫁に行ってしまったのです。
人格的にも優れていますが、教師としても極めて優秀です。
私は昨日、教職について、
しかし言うまでもなく「普通は」という条件付きの話で、「よほど適性にかける」に該当する人はどの世界にも必ずいるはずです。
と書きましたが、逆もあって、
「異常な適性を有している」に該当する人もあらゆる世界にいます。
いわば天才的なひらめきを持つ人々ですが、シノマもその一人なのでしょう、一度研究授業を見に行ったことがありますが、元担任の欲目をひいても舌を巻くレベルのものでした。
授業の組み立てがいい、授業者としての落ち着いた態度がいい、発問や切り返しがうまい、黒板の使い方が非常に適切――やはり人柄と能力はどうしても授業に出ます。
もっともシノマに限らず最近の(といってもここ20年程の)先生たちはみな大変優秀ですが、その中でも際立って優れた教師と言えるのです。
【シノマの迷い】
ご両親ともに教員ですが特にシノマが教職に就くことを望んだ様子もなく、私が担任していたころは無邪気に「看護師さんになる」とか言っていました。それが教員になったのは、本人によると器用貧乏であれもこれもやりたがっているうちに時間切れで、それで目の前にある教員に飛びついた、ただそれだけだそうです。
その「どうしてもなりたくてなった職業ではない」という気持ちの澱(おり)と、「器用貧乏であれもこれもやりたがっているうちに時間切れ」という記憶が、シノマの頭の中にいつも渦巻いていたようです。
さらに私が若いころは学級の荒れと授業崩壊という嵐の中で否が応にも仕事に熱中せざるを得なかったのに対し、シノマはずっと無難な教員生活を送ってきた様子もうかがえます。
私が中学校でシノマが小学校の低学年という違いもあったのかもしれません。とにかく決定的な困難には出会わずに来た、年齢や経験にふさわしい役割しか与えられずに来た――時間的には厳しいことはあっても、ほとんど努力らしい努力をせず、産育休を挟んだ前後3年をやってこれたのです。もちろん能力と人柄のなせる業です。
しかしそれがシノマの不満なのです。
「教員は努力や工夫が数字になって表れないからつまらない」
いつだったか飲み会の席でそんな話をしたことがあります。
「どんなにがんばったってどれほど成果を上げたって、それでお給料が増えるわけでもない」
「私はほんとうは、努力が成果にどんどん現れるような仕事がしたかったのかもしれない」
【シノマが学校を去る】
今週の日曜日、ばったり会ったシノマから教員を辞めるという話を聞きました。
ヤブから棒の話です。
辞めてどうするのかと訊くと、当面は子育てとアルバイトをしながら投資の勉強をするのだといいます。そういえば2〜3年前からFXやら株式やらで小金を稼いでいるという話をしていたような気もします。お金儲けをしたいといった話も、いつか出たように思い出しました。
「ああ残念だな、しかし頑張りなさい」
路上の立ち話で簡単にそう言って励ましてから、私は電車に乗って家路を急ぎ、その車中で我ながら病気かと思うほど体と心の沈んでいくのを感じました。立っているのも辛いほどです。
何が起こったのでしょう?
元教え子ですが親でもない。親だったとしてももう嫁に行って一家を構えている大人です。
シノマのことが心配だとか不安だとかいったことでもなさそうです。いや心配や不安はあっても、あの娘だったらうまく家庭を切り盛りし、夫の収入でしばらくは食つなぐに決まっています。もしかたら数年後、彼女の目論見通り投資で大儲けして女性起業家になっているかもしれません。
仮にそうならなくても、私の教え子には専業主婦もたくさんいますしパートに出て家計の足しにしている子もいます。そういう子たちた同じになることに、何の問題もないはずです。
それなのになぜこうも心沈むのか。
今週、生頼範義展の感想を書くについて「職業としてのイラストレーター」という視点からしかものが考えられなかったり、久しぶりに「山月記」を思い出したりといったことは、すべてシノマの件を引きずっていたからでした。
元教え子で特につき合いの長い親しい関係とはいえ、なぜこうも心を揺さぶられるのか、動揺するのか――。
そして一昨日あたりからようやく理解し始めたのです。
【これを捨て、あれを目指すのか】
『阿Q正伝』で有名な中国の作家魯迅は、共産党員で愛弟子の女流作家丁玲(ディン・リン)が国民党軍に捕らえられ転向したと聞いて、慟哭しながら責めたと言います。それと同じです。
シノマが教員を辞めてまでもやりたいことが、例えば、
「児童虐待を何とかしたい。保健師の立場から支援するようにしたいから今から看護学校に入りなおす」
とか、
「不登校の子たちの支援をするためのNPOの活動に専念したい」
とか、あるいは、
「発達障害の子どもたちの支援に入る。そのために臨床心理士の勉強を始める」
とかだったらこうも激しく動揺はしなかったはずです。
誰か(児童・生徒・保護者)を助ける仕事を捨てて、別の誰か(被虐待の子・虐待する親・不登校の子・発達障害の子やその親)を救う仕事に移る、それなら私は喜んで送り出すことができました。しかし教職を棄てて心移す相手が、「金儲け」というのはあまりにも酷いじゃないか――それがおそらく私のホンネです。
かつて村上ファンドを率いた投資家の村上世彰は、
「お金儲けは悪いことですか?」
と繰り返してこの名言を残しましたが、金儲けが悪いのではありません。
しかしシノマほどの教師だったらこれから先、何十人も何百人もの児童生徒や保護者の深刻で切実な悩みを解決できるのに、年齢を重ねれば私のように若い先生たちを通して何千人もの親子を救えるというのに、それなのに金儲けなのです。
もちろんシノマは守銭奴ではありません。子どものころからお小遣いの管理もできないと嘆いていたくらいですから。シノマにとっての金儲けは、村上世彰や堀江貴文と同じように「力の確認」「力の誇示」にすぎません。
けれど自分自身の力を確認し誇示することにどれほどの意味があるというのか、シノマにはシノマにしかできないことがあったはずです。
【もうだれにも止められない】
そういえば一年前、娘の友だちのエリカが教員を辞めると聞いた時も同じでした。
kite-cafe.hatenablog.com
何かに際立った才能があって他の道に進むのなら仕方ありませんが、普通に働いていく上で、教職以上にやりがいと価値のある仕事を私は知りません(もちろん他にもあるはずですが、単純に“知っているか知らないか”という意味で“私は知らない”のです)。
それほど大事に思っている教職という仕事が、軽々と捨てられるのはやはり悔しいですね。
そこそこ余裕を見せていますが、実はもう少し揺れていました。それでも今回ほどでないのは、シノマとの付き合いの深さのためでしょう。
有能な若い教師がこうも簡単に教職を捨てていくのはやはり景気がいいからなのかもしれません。
教職はブラックだという評価もすっかり定着しました。
2020年に向けての学習指導要領の移行措置も始まり、学校はますます忙しくなります。
私のように教職の理念的な素晴らしさを語るだけでは、もう人材は繋ぎ止められないのかもしれません。