カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「世の中には疑いを持っても議論を始めてもいけない事柄がある」~四の五の言わず聞け!①

 昨日はアメリカ独立記念日だった。
 独立宣言はその冒頭で、人類の平等や自由は自明だと突っ撥ねる。
 世の中には説明を必要としないこともあるのだ。
 しかし現代の日本の学校は、説明できないものは存在できない。

という話。


(写真:フォトAC)

 

【昨日はアメリカ独立記念日でした】 

 昨日7月4日は、アメリカで独立宣言が採択された合衆国の誕生日でした(1776年)。
 1989年にオリバー・ストーン監督、トム・クルーズ主演で制作されたアメリカ映画「7月4日に生まれて」を観て以来、この日付はしっかりと頭の中に入っています。主題曲として用いられたサミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」は、私が自分の葬送に流す曲として予定しているものです(もちろん自分でかけることはしません)。
 ちなみにフランス革命の口火を切ったバスチーユ監獄の襲撃は10日後の7月14日(ただし独立宣言の13年後の1789年)です。合わせて覚えておくと便利でしょう。役に立つかどうかは分かりませんが。

 アメリカ独立宣言やフランス人権宣言は、確か高校の授業で冒頭を暗唱させられ、教員採用試験にも覚えて出かけたと思いますが、いまは調べないとすらすら出てくるものではなくなりました。
 これも「ちなみに話」ですが、10年ほど前、酒の席で医者をやっている友人にそのことを話すと、盃を持ったまますらすらと暗唱し始めたので思わず殴りかかりそうになりました。神様は不公平です。もっとも私の方が幸せな人生を歩んでいますが。


【疑いを持っても議論を始めてもいけない】

 しかたがないのでネットでページを開きながらお話ししますが、アメリカ独立宣言の最初の文は“なぜこの宣言が必要になったか”を説明する内容ですので、実質的な本文そのあとからということになります。
 それはこういう文です。
 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。
 私はこの部分が好きで、この部分にしか記憶がありません。

 なぜ好きなのかというと、すべての人が平等で自由で、生命や幸福を追求する権利のあることは自明なのだ――証明することも議論する必要もない、当たり前のことなのだと、言い切っているからです。
 フランス人権宣言だと、同じことは次のように表現されます。
第1条 人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、そして生存する。
 おそろしく明快ですよね。

 世の中には、疑いを持ったり議論を始めたりすると、きりがなくて前へ進めなくなるような事柄がいくらでもあるのです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」などはその典型で、議論を始めると必ず不毛な袋小路に入り込んでしまいます。ですからこの質問に対する答えは、かつてあるテレビ番組で桂ざこば師匠が叫んだ「あかんもんは、あかんのじゃ」しかないのです。


【四の五の言わず聞け!】

 ユダヤ教の祈りの中心である律法(トーラー)の、最初の言葉は「シェマ・イスラエル(聞け、イスラエルよ)」だそうです。「四の五の言わずまず聞け」という意味でしょう。
 仏典の冒頭にたびたび見られる「如是我聞(にょぜがもん)」は「私はこのように(仏陀から)聞いた」という意味で、「正しいとか正しくないとかいう問題ではない、仏陀はそのように話されたのだ、まず聞きなさい」。そういうことです。 
 儒教でも「師のたまわく(子曰)」と言い切って弟子たちの居住まいを正させます。

 私はこういうことが、現代で通用しないことがとても不満なのです。

 有名な会津藩の「什の掟(じゅうのおきて)」は、次のような条文から成り立っています。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ


 現代ならどれ一つとっても議論しなくてはならない内容です。
「年長者だって間違えることはあるだろう」
「年長者といっても、尊敬できない人にまで挨拶をしなくてはならないのか」
「世の中には必要な嘘もある」
――そんなところで議論しているから、いつまでたっても話が前に進みません。それに対して「什の掟」はひとことでケリをつけます。
 ならぬことはならぬものです

 下着の色で学校に勝負をかけたり、ランドセルが重いだの15分の体育座りが苦しいだの、そんなどうでもいいことでいろいろ言うな! 授業がつまらないという前に、黙ってオレ(教師)の言うことを聞け! 

 もちろん私は小指の先ほども思っていませんし、口に出すこともありませんが、学校教育は指導の始まる前段階で、いつまでもグルグルと回っているだけのような気がしてならないのです。

(この稿、続く)