カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「学校のやることにはすべて理由がある。しかし説明することは難しい」~四の五の言わずに聞け!② 

 学校は経験知の固まりであり、すべてのことには理由がある。
 しかし知の量は膨大であり、理由をいちいち説明することは難しい。
 学校は日々、日常を過ごしているのであり、なぜ、それがそうなのか、
 調べて説明するだけの時間がないのだ。

という話。

(写真:フォトAC)

【“エビデンス”で詰め寄る】 

 ネット上で教育に関する記事やコメント、SNS上のやり取りを見ていると、近年、「エビデンスを示せ」とか「エビデンスはあるのか」、そう言って詰め寄る場面がしばしばみられます。エビデンスというのは「根拠」、中でも「客観的根拠」とか「科学的根拠」とかを表す、たぶん流行語です。

 しかしこと教育問題について「エビデンスを示せ」と言われても困る場合が少なくありません。そして困っているとそれ自体が敗北を認めた形になるのでなお困ってしまいます。人文系の内容で、客観的あるいは科学的根拠を示すのは容易ではありません。

 再三申し上げているように、学問は大枠として「科学」と「芸術」に分かれます。
 科学の神髄は「誰がやっても結果は同じ」。手順さえ間違えなければ、酸性の溶液で青色リトマス紙を必ず赤に変わります。これが実験者の人格や熟練度、あるいは年齢によってそのたびに異なるようでは困ります。


ピカソが偉大であることを客観的に証明できるか】

 ところが芸術の方は「誰も同じではない」ことこそ神髄です。真似はできますが、ピカソの真似はどこまで行ってもピカソの真似。同じ感動は与えられないのです。そして本物は感動を与え偽物は与えられないことについて、エビデンスを求めても問われた方は困るでしょう。

 そう考えるとき、例えば心理学がエビデンスを求められて耐えられるかというと、私は大いに疑問だと思うのです。
 もちろん認知心理学や行動心理学の一部では誰がやっても同じ結果が得られます。しかし臨床心理学、具体的に言えば心理分析やカウンセリングは、どう考えても「誰がやっても結果は同じ」というわけにはいきません。フロイト先生のような神懸かった人もいれば、見当違いことしかできない“専門家”もたくさんいます。臨床心理学は実験科学ではなく経験の学問ですから、「先達がこうやってうまく行ったから、私がやってもうまく行くだろう」、そう思ってやってたいていの場合うまく行くのですが、失敗することもあります。
 臨床心理はそうした経験の積み重ねなのです。


【学校教育にエビデンスを求められても困る】

 教育も同じです。学校教育が行っていることの大部分はエビデンスを求められても困ることばかりです。
 遠足や修学旅行が子どもの成長の大きな足掛かりになるとか、百人一首大会や書初め大会にも意義はあるが、音楽会それを上回る教育的効果があるから残すならこちらだとか、部活動は生徒の心身の成長に大きく寄与しているとかいったことに、エビデンスを求められも困ります。それは教師たちの長年の積み重ねによって培われ、取捨選択されてきた結果だからです。それで多くの場合はうまく行っています。うまく行かなければ修正するだけです。

 それでも学校教育にエビデンスを求めたがる人たちは、すでに歴史のある現在の学校教育を批判する前に、総合的な学習の時間によって問題解決能力が高まるとか、小学校から英語を勉強することによって国民の英語力が高まるとかいった新しい教育について、先にエビデンスを求めてほしいものです。おそらく立証できない。特に小学校英語なんて、実績がまるでないからです。
 仮に日本より早く小学校英語を始めた中国や韓国の子どもたちが、英語力を高めていたとしても、それが学校教育の成果なのか、他の、社会情勢の変化などによるものなのかを、分けて証明することは容易ではないからです。


【指導法や校則のエビデンスも難しい】

 今どき箒と雑巾で掃除をする世界がどこにある。なぜ学校は掃除機を導入しないのだ。
 今は計算機があってスマホにも組み込まれているのに、なぜ面倒くさい手計算や暗算にこだわるのか。
 下着や靴下が白でなければならないのはなぜか、髪を染めてはいけない理由はなにか、ピアスはなぜいけないのか、どうせ着替えるのにジャージーで登校してはいけないのはなぜか、自転車通学でヘルメットを被らなければならないのはなぜか、大人の大半はヘルメットなど被っていないし自由な服装で生きている、等々。

 校則の大部分は実は経験知です。
 学校の先生だって面倒くさいですから校則なんてない方がいいのです。なければ指導もしなくて済みます。しかし何らかの理由でそれが校則になって現在がある以上、安易に取り下げるのは危険だと、多くの教師たちは考えます。そしてその怖れは、たいていの場合、間違っていません。

 私はここ20年あまり、そういうことばかりを考えて来ましたから、学校の行うことや校則の多くについて、ある程度の説明できる自信があります。
 しかし残念なことに現職の先生たちは忙しすぎて、じっくり学校の指導法や行事や校則の意味を、考えたり成り立ちを調べたりといったことができないのです。だからいきなり「なぜ、こうなんですか」などと突きつけると途方にくれたり、その場しのぎの言い訳で済ませたりということも少なくありません。
 すると子どもやメディアはすぐに「先生でも説明できない校則」だの「わけのわからない指導法」だのと責め立てます。けれど先生が即答できないからと言って、それらが無意味の証明になるわけではありません。
 また生徒や保護者、マスメディアや世間の人々が、自分が理解できないから理不尽だの無意味だのと一刀両断にするのも間違っています。そこには重要な意味が隠されている場合も少なくないからです。

(この稿、続く)