カイト・カフェ

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「アラサー:今まで見えていなかったものが立ち現れてくる」~シーナ、32歳の逡巡①

 30歳前後のある日、突然、
 自分が世代のトップグループから大きく遅れていることに気づく。
 やばい、私はこんなふうじゃなかったはずだ――。
 しかし待て、と老人は言う。事態は年寄りにはこんなふうに見える。

という話。

f:id:kite-cafe:20220306155658j:plain(写真:フォトAC)

 

【シーナの嘆き】

 珍しく娘のシーナから電話がありました。連絡はよく取り合っているのですがほとんどはLINEトークで、通話というのはめったにないのです。
 開口一番、
「たぶん高校以来、久しぶりに悔しい思いをしている、切ない」
と穏やかではありません。
「このあいだ確定申告の書類作成をしているって言ったでしょ――」
 話はそこからここ数年続けてきた個人事業主としての仕事が順調だという方向に進み、仲の良い友だちにお金を払って手伝ってもらっているという話になって、次は何かと思ったら、
「私、これを会社にして社長になる!」
 そこで慌てて遮って、
「ちょっと待て、社長になることと悔しいこととはどういう関係なんだ?」
と訊くと、ようやく落ち着いた話になりました。

 要するに、気づいたら自分と同い年くらいで社会的に成功した女性がたくさんいて、テレビや雑誌のインタビューで盛んに報じられるようになっていた。中には20歳代後半という年下の娘もいる。私だってこれまでかなりがんばってそれなりの成果は上げて来たのに、いま、あの娘たちに負けるのは悔しい――と、そんな言い方ではなかったのですが、私の受け取ったところはそうです。
 そこでこんな話をしました。

【30歳前後、今まで見えていなかったものが立ち現れてくる】

 シーナも32歳だよね。その年齢でのそんな感じ方には、父(私)も記憶がある。30歳前後というのは今まで見えていなかった同世代の人々が、急に立ち現れてくるものなのだ。

 私の場合は、初めは歌舞伎や能・狂言といった古典芸能の御曹司たちだった。こうした芸能に対して、私は何の興味も知識もなく、また多くの普通の子がそうであるように周囲に熱心な信奉者もいるわけではなかった。だから、もちろん小耳に挟んだことはあるが、その世界にどんな人たちがいるのか全く知らなかったのだ。
 ところが30歳前後になったころ、彼らはテレビや雑誌の中にこつ然と現れてきたのだ。しかも圧倒的な存在感をもって、一流の文化人として立ち現れてきた――。

 考えてみればいい。この古典芸能のサラブレットたちは生まれたときから、男の子というだけで一部の人たちから熱狂的に支持されてきた。2歳~3歳のころからその世界にどっぷりつかって稽古を重ね、彼らの存在に気づいた当時の私の年齢に近づくころには、芸歴30年といったとんでもないキャリアをもってそこにいる。しかも子ども同士でも遊んだかもしれないが、その歳までにたくさんの大人、しかも一流の大人たちに触れ、一緒に食事をし、話を聞き、さまざまなアドバイスを受けながら育ってきたわけだ。普通の生活をしてきた私なんぞがかなうわけがない。一念発起したところで、30年のキャリアが克服できるわけではない。

 一方、私は別の大げさなことも考えていた。明治の元勲たちだ。
 維新が達成された時期の彼らの年齢――木戸孝允34歳、江藤新平33歳、後藤象二郎29歳、福沢諭吉32歳、伊藤博文26歳。しかも高杉晋作(28歳)、坂本竜馬(31歳)、久坂玄瑞(24歳)、橋本左内(25歳)らは、その時までにすでに何ごとかをなして死んでいる。それにもかかわらず30歳で転職して中学校の教員となった私は、学級経営も満足にできず、ひとりアタフタしているのだ。妻もなければ子もなく、もしかしたらそのまま何も残さずに人生が終わってしまうのかもしれない。

 もちろん最初から「自分は大した者ではない」「普通の生活を普通に生きていければいい」と等身大の自分を受け入れるような人間であったらよかったのだが、あいにく私はそういう性質ではなかった。

【10年ごとの人生】

 もっとも自分に絶望しかかった30代前半は、とにかく教員としての目の前の仕事が忙しく、人生を真正面に据えて考える暇がなかった。ふと気づくと機会に恵まれてお前の母と結婚し、すぐにお前が生れて、ある意味で引き下がれなくなった。
 また、ちょうどそのころ学校でも3回目のクラスの学級担任になって、何となく学級経営の勘所がつかめるようになり、目を瞑っていてもとまでは言わないが、それほど不安なく教員の仕事が続けられる気がしてきた。 
 やがて弟のアキュラも生まれ、公私ともに順調で、そしてちょっと飽きてきた。そこで私は「より良い中学校教員となるために小学校の経験もしてみたい」ということで、小学校への異動願を出したわけだ。

 そのあとはお前の知っている通り、人事異動のシーズンのたびに中学校へ戻してくれと願いを出したけどかなわず(小学校への異動は“小学校教員”が一人減ればかなうが、中学校への異動は“中学校社会科の教員”が一人減らなくてはならない、という原則に気づいていなかった)、結局、小学校を10年やって、残りの10年を管理職として終わってしまった。
 しかし30年間の教員生活を、10年ごと別な形で行ったということは、私にとってはかなりいいことだった。



(この稿、続く)