カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「人生は不思議だ、思わぬものが価値になる」~シーナ、32歳の逡巡②  

 いま手の中にあるものをしっかりと掴み直そう。
 そしていま、手の中にないもののうち、何がつかみ取れそうか考える。
 それらを手に入れるためには、これからも世界と人を見ておくことだ。
 だが人生は不思議だ。成功はまったく別の方角から来ることもある。
という話。

f:id:kite-cafe:20220307201429j:plain(写真:フォトAC)

 

【現在の成功者も、いつまでもそのままではいないだろう】

 同じ教員という枠の中だけど、10年ごと違った立場で仕事をしてきたことは父(私)にとってとても幸せなことだった。ところで今、シーナの意識している“三十歳前後で社会的成功を収めてしまった女性たち”は、10年後どうしているのだろう? 現在の成功を大切にし、いつまでも同じ状況を保っているだろうか?

 もちろん事業が傾いて立て直すのに悪戦苦闘している人もいれば、すでに失敗が確定してその世界から足を洗っている人もいるだろう。しかしそんな若さで大成功を収めてしまった人の大部分は、10年後も新しいことに挑戦しているに違いない――そんなふうには考えられないかい? 同じ仕事を何十年も続けていくのは、人間にとって楽なことではないのだ。職業以外に何らかの生きがいを持っていない限りね。そして新しい挑戦をすればそこには必ずリスクがある。

 シーナの焦りも分からないではないが、職業人としてのお前の人生はまだ40年もある。慌てて何かを手に入れようとしなくても、自分を試す時間はうんざりするほどあるわけだ。
 今の仕事はうまく行っているとは言え、まだ軌道に乗り始めたばかりじゃないか。父としてはもうしばらく、自分の足元を固める時間を取るよう勧めるね。

 よく「ギャンブルや株式投資は余剰資金でやるものだ」と言うじゃないか。冒険は家計を切り崩してまでやるものじゃない。今の仕事が目を瞑ったままでもできるようになったら、とまでは言わないが、多少気を抜いても何とかやっていけそうだと思えるようになったら、新しいことを始める――それがすでに家庭を持っているお前にはふさわしいやり方だと思うがどうだろうか?
 それでも急ぎたいかい?

【その人たちの持っているものを見極め、対比する】

 ところでシーナが意識している若き女性経営者たちは、どんなふうにその立場を獲得したのだろう? それはシーナも手に入れることのできるものだろうか?
 というのはね、もしその娘が大金持ちの令嬢で、多少の失敗も補填してくれる寛容な親がいたとなると、これはお前にかなうものではない。私には2000万円ポンと出して「これで何でも好きな仕事をしてごらん」といった財力はない。
 あるいは企業経営を前提に、たくさんの人脈を用意してあげることのできる親がいたかもしれない。しかしそれもシーナの父にはないものだ。
 極端に言えば、その女性経営者には実は非常に有能なパトロンがいて、実際にはその指示に従って動いているだけのお人形、ということだってあるかもしれない。だがこれはお前向きではないだろう。

 その子たちの学歴や職歴は見ておく必要がある。学部で経営学とか経済学を学んだ娘だとか、小さな会社で経営者のすぐ横で学ぶことが多かった娘とか、あるいはそもそも実家が企業経営をしていたとかだったら、そこに一日の長があるだろう。もちろん埋められない差ではないが、意識して詰めなければならない差ではある。

 何か時代の流れをうまく掴んだり、素晴らしいアイデアに恵まれての結果だろうか。だとしたら起業という視点から、もう一いちど社会全体を見続ける必要もあるだろう。
 それがこれから、現在の仕事の足場固めをすると同時に、お前がしなくてはならないことだ。

【人生は不思議だ、思わぬものが価値になる】

 だがそれとは別に、シーナの夢がまったく違った形で消えてしまうこともある。そのことも頭の隅に置いておくといい。いま価値だと思っていることが、別の価値にとってかわられる場合だ。父はそうだった。

 30歳で教職についてしばらく苦労し、やがてコツを掴んだ感じで教員であることが苦しくなくなったころ、父は結婚してお前が生れた。三年後、弟のアキュラも生まれた。そして気がついたのだ。
 もともと子どもは好きだったのだけど、手元に赤ん坊がいて、それを18歳まで育てるということがどんなに楽しく、どんなに面白いことか。それは有名になったり喝采を浴びたり、人々から褒められたり感謝されたり――つまり子どものころの私が望んだものすべてに匹敵するような、あるいはそれ以上のものだった。
 それを手に入れて十分に味わっただけでも、私は成功者だ。

 父は100万回死んでも100万回生まれ変わり、100万回お前たちと会いたい。そのためにはお母さんとも100万回会わなくちゃいけなくて、それはそれでかなりしんどそうだけど、それでもお前たちに会いに来る。
 同じように10年ののち、シーナはいま悔しい思いや切ない思いをさせられている人たちに、何も感じない日が来るかもしれない。それが人生の妙だ。
 向こう40年、50年、あるいは60年、人間が変わらず同じものを求めているとしたら、その方が変だろう。もしかしたらその時、いま考えていることよりはるかに価値の高い何かを、お前はその手にしっかり掴んでいるかもしれないのだ。

(この稿、終了)