カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「『あさま山荘事件』で時代の空気が変わった」~明日は事件から50周年 

 50年前の明日、2月19日、
 軽井沢の「あさま山荘」に5人のテロリストが侵入した。
 9日間の攻防の末、犯人は一人も死ぬことなく逮捕された。
 そして時代の空気は一気に変化したのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20220217192227j:plain(写真:フォトAC)

【「あさま山荘事件」のあらまし】

 明日2月19日は50年前に「あさま山荘事件」の起こった日です。
 1972年のこの日、群馬県から長野県の軽井沢へと、警察の追及を逃れてきた過激派テロ集団「連合赤軍」の5名が、河合楽器製作所の保養所「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に取って9日間に渡って立て籠もりました。5名はライフル・散弾銃・拳銃などで武装しており、壁のあちこちに空けた銃眼から発砲を繰り返します。9日後の28日には警官隊の強行突入によって派手な銃撃戦(警官隊は催涙弾と放水、クレーン車に取り付けた巨大鉄球による建物破壊が中心)となり、8時間を越える攻防の末、人質は無事救出、5人の犯人も誰一人大きなけがをすることなく逮捕されました。

 警官隊側の犠牲は大きなものでした。2名の殉職と27名の重軽傷者、警察以外にも、勝手に身代わりを申し出た民間人ひとりの死亡と、報道関係者1名の負傷もありました。
 人質が監禁されていた総時間は219時間(約9日)で、これは警官が包囲する人質事件としては現在も最長記録。28日、NHKが午前9時40分から午後8時20分まで続けた報道特別番組の視聴率は50・8%で、この種の番組の最高視聴率となって今も破られていません。
 逮捕直後の民放・NHKを合わせたテレビの視聴率は驚異の89・7%で、おそらく仕事のない人のほとんど全員が、テレビにくぎ付けだったはずです。高校3年生の私も、朝からテレビに張り付きっぱなしで、山荘が破壊されていく様子やけが人が運ばれていく様子、最後に犯人たちが引きずり出されていく場面などを、リアルタイムで見ていたのです。

【日本の警察は人を殺さない】

 監禁がこれほど長引いたのは、ひとつには「あさま山荘」が最上階に玄関のある、崖に張り付いたような建物で、「現代の千早城」と呼ばれるほど難攻不落だったこと、犯人たちが何の要求もせず交渉にも応じず、ただ発砲を繰り返したために状況が変化しなかったことなどがあげられます。しかし何といっても警察側に「犯人を殺さない」という大前提があったから時間がかかったのです。拳銃の使用も、最終日の強行突入まで許可されませんでした。

 私は死刑廃止の話が出るたびに「先進国のほとんどは死刑を廃止している」という主張のあることに違和感を持っています。それは多くの国で、あまりにもあっさりと警察官によって犯人が殺されているからです。
 日本の場合、警察官が殺されても重傷者が出ても犯人は絶対に殺さない――これが大前提です(実際には殺された犯人はゼロではありませんが)。あさま山荘の犯人たちはしばしば銃眼などから顔を出しています。これがアメリカならすぐに狙撃されるでしょうし、そもそも犯人が最初に発砲した段階で激しい銃撃戦となり、人質の生死は別として、事態はあっという間に収まってしまうはずです。
 あさま山荘事件はそうした日本の警察のあり方を強く印象付けた事件でした。

【時代が変わる――団塊の世代の変節】

 事件についてはWikipediaにうまくまとめて書かれていますから、一度読んでみるといいでしょう。雰囲気はある程度わかります。

ja.wikipedia.org  しかしそこから時代の空気を感じ取るのは難しいかもしれません。

 「50年前」は私にとってよく記憶をたどれる時代ですが、現在の若者からすれば大昔です。本人どころか、もしかしたら両親ですら生まれていない。試しに私が二十歳の時のさらに50年前を考えると大正時代に入ってしまいます。昭和の私に大正の空気を読み取れと言われても困ります。

 ただ、それでも当時の若者の空気を語るとしたら、こんな説明ができるかもしれません。
 1970年の日米安保条約改定阻止を最大目標として盛り上がっていた学生運動(学生の政治運動)は、70年を越えると普通の市民に戻る者と過激に走る者に二分されます。山荘を占拠した犯人たちは過激派の中でも最も先鋭な人々で、世間の一部には自分たちの果たせなかった活動を続ける勇士として持ち上げる雰囲気もありました。ところが「山荘事件」のあと、捜査が進むうちに犯人たちが事件を起こす直前、12名もの仲間を凄惨なリンチにかけて次々と殺害していた事実(山岳ベース事件)が明らかになってきます。世間は学生運動を見限り、ただでも衰退していた運動はすっかり消滅してしまいます。松任谷由実の『いちご白書をもう一度』に出てくる、
「就職が決まって髪を切ったとき、もう若くないさと、キミに言い訳したね」
といった若者たち――この人たちが、やがて日本社会を強力にけん引し、バブル経済を演出した「団塊の世代」です。

【50年前の私と世界】

 私は「遅れて来た青年」で日米安保闘争にも間に合わず、ヘルメットをかぶることも鉄パイプを握ることもありませんでした(この意味が分からない人は調べてください)。
 「あさま山荘事件」の起こった1972年の1月~3月期は大変な事件続きで、1月にグアム島で元日本兵(横井正一さん)が発見され、2月には「あさま山荘事件」、3月には札幌オリンピックでスキージャンプの「日の丸飛行隊」が表彰台を独占します。
 私は受験生でしたが社会に対して常に広い目を向けていたので翻弄され、その年の受験はことごとく失敗します(ということにしてあります)。

 この年はまたニクソン大統領の中国電撃訪問があり、ウォーターゲート事件があり、ミュンヘン五輪で人質事件があったり、日本国内でも沖縄返還があって日中正常化があり、初めてのパンダがやってきたりします。ですからいずれも50周年ということになります。
 そんな調子ですから私の浪人生活もあちこちキョロキョロしているうちに終わってしまいました。

 1年遅れで大学に入ると、まだ構内でヘルメット被って大声で叫ぶ20人ほどの一団がいましたが、彼らのいる場所は巧みに避けられ、周囲を歩く学生たちは皆、小ざっぱりとした服装で颯爽と風を切っていました。
 思いつめた表情の政治青年たちは、50年前のこのころを境に、大学からも社会からも消えてしまったのです。